セレナール大陸の石物語:第一部『官吏と秘宝とまだまだ未熟な暗殺者』

大谷往喜尾

第一章:『黒調の誘惑〜カーディのワイン』

第1話:帝都ガイアスとヴォルク・アルブレヒト



琥珀の杯に注がれし深紅の竜の涙酒

星降る夜、紅き幻影のごとく消え去り

残るは魔法の残り香と、琥珀に沈む記憶の欠片

永遠を求めて彷徨う不死の渇き


—— エルヴィン・シルヴァーミスト 『魔術師の酒宴』 セレナール歴1026年



セレナール大陸—— この大陸の各地にはさまざまな秘石が存在しているという。この物語は、人々と、大陸全土の『秘石』を巡る年代記である。


創造神話の時代から数えても古くからあるこの土地で、人類はいつの時代も同じ過ちを繰り返してきた。


星々がまだ若く、その光が地上の者たちを直接照らしていたとされる創世の頃から、彼らは剣を取り、神を唱え、土地を奪い、そして滅び去った。歴史とは血塗られた愚行の記録であり、この大陸もまたその例外ではない。繁栄の名の下に築き上げられた数多の王朝や都市は、その名すら覚えている者がないほどに塵と消え去っていった。これが人間という種の本質なのだろうか。


時の流れの中で、王は王を殺し、神官は神官を呪い、貴族は貴族を裏切り、そのどれもが「永遠」という虚飾を手に入れることはなかった。大地に埋もれた無数の国家の骸が、それを雄弁に物語っている。


しかし—— アルディア帝国だけは、わずかながらもその例外となり得た勢力であった。一時とはいえ、この混迷の大陸に「秩序」という幻影をもたらし、その証として造り上げた都市がある。


ガイアス。


無数の奴隷と職人たちの手によって積み上げられた白灰色の巨石群は、天に向かって挑戦するかのように林立する尖塔となり、濃霧をも貫く。その威容たるや、遠方の旅人をして畏怖と敬意を抱かせるに十分であり、人智の限りを尽くした建築の極致と言えるだろう。皮肉なことに、その美しさの陰には、幾千もの骨が眠っていることを知る者は少ない。


この都市は力と信仰と利と傲慢さを養分として成長し、今なおセレナール全土を見下ろす存在であり続けている。弱小国家を吸収し、異端の火刑を執行し、交易路を牛耳り、自らの優位を誇示する——それこそがガイアスの生存戦略であったし、今も変わりはない。


その中核に鎮座するのが「トゥリル・アルディエ」である。三つ巴の王冠と称えられる皇帝の居城は、同時に帝国そのものの象徴でもある。三本の螺旋状の塔が中央に向かって立ち上がり、その求心点には白鳥を模した純白の石像が翼を広げている。


官僚たちはこれを「帝国の三位一体なる叡智と武勇と富の顕現」と称え、聖職者たちは「神より授かりし永遠の証」と崇めたてまつる。だが市井の民はもっと直截に、そして軽蔑の念を含んだ笑みとともに、この奇怪な建造物を「うずまき鳥」と呼んだ。


確かに—— 上空から俯瞰すれば、三塔と回廊の螺旋は霧中を舞う鳥の姿に見えなくもない。そして何より、この都市そのものが栄光と混沌の渦を巻きながら、なお飛翔し続ける怪物のようなものであることを思えば、この呼称もあながち的外れではないだろう。皇帝の怒りを買いかねない危険な諷刺であるにもかかわらず、この通称が庶民の間で廃れないのは、それだけ真実を突いているからかもしれない。


グラン・セレス通り。トゥリル・アルディエの正門から真っ直ぐに伸びるこの大通りは、三重の城壁を貫き、市場へ、港湾へ、そして外界へと至る都市の大動脈だ。かつてはこの道を戴冠の行列が渡り、凱旋する軍団が行進し、神官たちが神々の奇跡を告げた。そして今も、朝の霧の中、整然と並ぶ衛兵たちの甲冑がきらめき、石畳を打つ蹄の音が鳴り響く。まるでこの都市が今なお生き、支配し、息づいていることを誇示するかのように。


ガイアス—— それはかつても今も、セレナールの冠であり続け、この世界がその手から零れ落ちることを知らぬ、唯一の奇跡であった。しかし、すべての奇跡には終わりがある。ガイアスもまた例外ではない。それがいつであるかを知る者はないが、確実に訪れる運命なのだ。


ガイアスの朝は、例によって霧の中から姿を現す。


白灰色の石畳は露に濡れ、霞の向こうの尖塔群は朝日を反射し始め、この大都市がしばし夢の中にいるような静けさを漂わせていた。だが、その静寂は長くは続かない。港からは荷物を運ぶ車輪の軋み、市場へと向かう商人たちの声が徐々に大きくなり、鍛冶屋の槌音、鐘楼の鳴る音、巡視する衛兵の馬蹄の音——これらが交じり合い、巨大な生き物のように都市は目覚めていく。


グレイヒル地区。官庁街からほど近い、整然とした区画の住宅街。城壁内に位置し、官僚や富裕商人たちが好んで住む、格式と利便を兼ね備えた場所である。


その一角から、中背で中年太りの男が、濃紺の軍服風上着の襟元をゆるめ、朝の霧を切るように歩き出した。堂々とした歩みには、帝国官僚の自尊心と、地方から上京した者特有の気負いが混ざり合っていた。


ヴォルク・アルブレヒト——アルディア帝国財務省査察課、室長。


年齢は五十に手が届こうかという頃合い。短く刈った髪に霜が混じり始めていたが、その腹部は年相応以上に膨れ上がっている。顔には、長年官僚として生きてきた疲れと、それでも帝国の中流官吏として持ち得る微かな誇りが同居していた。


「まあまあ、今日も忙しい一日になりそうだな」


ヴォルクは独り言を呟きながら、内ポケットから高級葉巻を取り出し、手の中で弄んだ。まだ火をつける時間ではない。これは単なる習慣だった。実家から送られてくる上等な葉巻は、彼にとって密かな自己満足の象徴だった。


彼の出自は地方の名家である。絢爛たる宮廷貴族の血筋ではないが、地方行政を支えてきた血筋に生まれ、子供の頃から「ガイアスに出る」という目標を刷り込まれ、そして実際にそれを果たした数少ない成功者だった。しかし内心では、まだ自分の地位は不安定だと感じていた。それが彼の虚栄心と小さな意地の源だった。


ヴォルクは自分が特別な存在だと思いたかった。だが、それを声高に主張するほど愚かではなかった。ただ、彼の着る上着の質感や、磨き上げられた革靴、使用する文房具の一つ一つに至るまで、さりげなく高級品を選ぶことで満足を得ていた。庶民と自分を隔てる小さな境界線を引くことは、彼にとって日々の慰めでもあった。


「まあまあ、今日も部下たちを督励せねばな」


彼は再び呟いた。ヴォルクにとって、部下たちは自分の腕の延長であり、同時に面倒を見るべき存在でもあった。厳しく指導するが、その奥に情の深さを隠している——そう自分では思っていた。


グラン・セレス通りへ向かう道すがら、ヴォルクはふと足を止め、遠くに霞むトゥリル・アルディアの塔を見上げた。朝霧に浮かぶ「うずまき鳥」の姿は、今日も変わらず威厳に満ちていた。


滑稽なあだ名だと思いながらも、内心では壮麗なその姿に魅了されていることを、彼は自分でも自覚していた。中流官吏の限界と、まだ見ぬ高みへの憧れが、胸の内で葛藤を起こす。一度は手に入れた帝都での地位を確固たるものにしたいという欲求と、これ以上の野心は不相応ではないかという思いが、常に彼の中で綱引きをしていた。


「まあまあ、今日も乗り切るとしよう」


そう言って彼は歩みを進めた。今日もまた、帝国の歯車の一つとして、自らの役割を全うするために。高級ワインと美術品を買い足す余裕を保ちながら、あからさまな出世競争は避けつつ、しかし確実に己の居場所を守るために。


グラン・セレス通りを北へ——朝霧はいまだ晴れやらず、石畳の上には昨夜の露が宝石のごとくきらめいていた。ガイアスという怪物は、緩慢ではあるが確実に、その深い眠りから目覚めつつあった。


人が城壁をくぐり抜け庁舎街へと足を踏み入れた瞬間、空気は一変する。そこを行き交う者たちは商人でも職人でもなく、皆が揃って官服をまとい、文書鞄を抱えた役人たちである。彼らの声は低く、足取りは忙しなく、だが彼らの胸中では、例外なく己の小さな勢力圏を拡張せんと冷たい野心を燃やしている——そうした計算高い匂いが、この一帯には微かに漂っていた。


ヴォルク・アルブレヒトの歩みは、典型的な中級官僚のそれであった。彼は確かに高級ワインや美術品に目がなく、同僚たちよりも少しだけ上質な外套を身につけることに密かな優越感を覚える男である。彼の内面では「自分は特別な存在だ」という思いと「この程度では足りない」という焦りが絶えず戦っていた。だがその空威張りと必死さが、どこか憎めない雰囲気を醸し出していたのも事実であった。


帝都財務省——この重厚な石壁に囲まれた建物群からは威圧感と無言の傲慢さが滲み出し、足を踏み入れる者に対し、自らが選ばれた存在であるという幻想を植え付ける。それは上層部が意図的に演出しているわけではないが、何世紀にもわたって培われた官僚制度の持つ独特の匂いであった。


ヴォルクは正面門をくぐり、控えめに頭を下げる門番たちに対し、少々大げさな頷きを返した。彼はこうした些細な行動にさえ、「ヴォルク・アルブレヒト室長」としての威厳を込めようとする。その姿は客観的に見れば滑稽でもあったが、本人だけは気づいていない。


内部は静寂に包まれていた。朝の陽光は高窓から射し込み、石床に光の模様を描いていた。ヴォルクは一瞬立ち止まり、この光景を眺めた。他の役人たちは忙しなく通り過ぎるばかりだが、彼は「上質な教養と心の余裕を持つ男」として、こうした美しさに目を向けることが自分の義務だと思っていた。実のところ、彼の心は昇進や保身で一杯なのだが、そうした俗物であることを自覚しつつも、そうでない自分を演じることが日課となっていた。


階段を上り、回廊を曲がり、執務室の扉の前でヴォルクは一瞬立ち止まった。扉の前で姿勢を正し、胸を張る。その仕草には、「ここまで上り詰めた俺」という自負と「まだ足りない」という焦燥が同居していた。


そう思いながら、彼は扉を開ける。室内は質素を装いながらも、細部に拘りが表れた調度品で整えられていた。机上のインク壺は一般官吏のものより若干良質のもの、椅子は通常より僅かに大きく作らせたもの、そして誰も気づかないだろう場所に、故郷からの手紙を大切にしまっている。表向きの俗物と、隠された感傷——この二面性こそが、ヴォルク・アルブレヒトという男の本質であった。


彼は上着を脱ぎ、椅子に丁寧にかけると、机の上に手を置き、その表面を撫でるように触れた。この机の光沢、この椅子の重み——それらはすべて、彼が地方から身を起こし、毎日の退屈な業務を耐え忍び、獲得した勲章なのだ。その小さな勝利を、彼は何よりも大切にしていた。


「品格は外套、実力は靴ってね」


座右の銘を唱えながら、彼は密かに自分の靴を見下ろした。今朝も念入りに磨き上げた革靴は、朝陽を鈍く反射している。そして彼は満足げに微笑んだ。ヴォルクは自分の価値を証明するために、こうした細部にまでこだわる男だった。それは滑稽でもあり、どこか健気でもある姿であった。


彼は小さく息を吐き、椅子に腰を落とした。今日もまた、帝国の歯車として、「優秀な室長ヴォルク・アルブレヒト」を演じるために。そして彼は机上に整然と積まれた文書の束を、必要以上に重々しい動作で引き寄せた。


歴史の中では取るに足らない一人の官吏。しかし彼の心の中では、常に壮大な物語の主人公であり続ける——そんなヴォルク・アルブレヒトの一日が、また始まろうとしていた。


彼にとって、今日の出会いがどんな運命を引き起こすのか、まだ彼は知らない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る