第22話 濡れた手で

連日の雨が嘘のように晴れ、空は一面の青。
木々の葉は艶やかに濡れ、建物の白壁は、まるで新品のようにきらきらと輝いている。

「柳の色も新たで美しいこと! 気持ちがいいですわ〜」

紅子は、ご機嫌である。
十二単をふわりと揺らしながら、学長とともに大学構内をお散歩中。

「ご機嫌ですね、紅子様〜。ふふ、今日の十二単もおしゃれ!」

「ありがとう。さわやかな配色を選びましたの。
 ──推しの楽園を歩くんですもの、軽やかに参りたいですわ!」

氷室大学。学問を愛し、学問に生きる者たちの聖域。
そこを歩くだけで、紅子の心は喜びに満ちていた。

「ああ、学ぶ者たちの楽園!素晴らしいですわ〜」


学生たちも、紅子の姿に驚きつつ──挨拶をして通り過ぎていく。

「推しの教え子たちですわ!なんて、愛おしいんでしょう!

紅子は、ひとりひとりが可愛くてたまらない気持ちだった。

──が、そこで足を止めた。

「あら?」

視線の先、ベンチにひとり──膝を抱えてうずくまる人影があった。
その一角だけ、なぜかどんよりと雲が立ち込めているかのよう。

紅子が、そっと指を差す。

「……あれは?」

「大学ぺディア5-2、五月病ですね〜」

学長が、即答した。

「ゴールデンウィーク明けに、学校や仕事に行きたくなくなるんです」

「まあ、なんてもったいない……!
 治して差し上げて!」

「はーい」

学長はスマホを取り出し、電話をかける。

「カウンセラー室?第四ブロックのベンチに五月病の患者さん発見。救護お願いね〜」

サクッと指示を出すと、再び歩き始める。

 

「……あら?」

また、紅子が立ち止まった。
今度は、白衣ではなく、スーツ姿の男が──壁に向かって、逆立ちをしている。

「……あれは? 直角三角形リスペクトか何かですの?」

「違いますね。たぶん就活連敗メイズです」

「就活……?」

「就職活動に失敗し続けて、焦りと現実逃避がスパイラルになってる人のことです〜。準備不足が原因かな。えーっと、キャリアサポートカウンセラーに──」

学長がスマホを構えたそのとき。

──その逆立ち男が、ぐるんと回転して起き上がった。

「……あっ」

学長と紅子は、同時に目を見開いた。

「「……帰りましょう」」

ふたりは回れ右して足早に、その場を立ち去ろうとした。


逆立ちの男──月御門吉昌。


かつて氷室大学に借金返済を迫り、理事長の座を要求した男。
今は、社長職を解任された、ただの──失業者である。

「あっ、こら! 無視すんな!」

が、背後から手が伸びてくる。

「──きゃあっ!」

紅子が悲鳴を上げた。

「濡れた手で触らないでくださいませ!!」

紅子の十二単の袖をかばうように、ひらりと跳ねて距離を取る。

昨日の雨のせいで、地面はまだ湿っていた。
逆立ちしていた吉昌の手は、泥にまみれていたのだ。

吉昌は、悪役らしくニヤリと笑った。

「……ほほう? 服を汚されたくないのかね? ふふふふふ、ならば、俺の言うことを聞いてもらおうか? んん〜?」

両手の泥をワキワキと動かし、いやらしい笑みを浮かべて迫ってくる。

──ああ、完全に悪役モードだ。

学長はそそくさとスマホを再び構えた。


「工作室? 逆立ち不審者の回収、お願いしま〜す」

 


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