三つ口の女

下町のカクレヲン

第1話

その日、女は神奈川区台町にある長い階段の途中でふと足を止めた。



女の見上げた先にはえだぶりの美しいもと紅葉もみじがある。老舗しにせの料亭

の壁沿いにぽつと出た外灯のとぼりの下を、紅葉もみじの朱色はより一層と

深みをびて、緋色のようなつかみのあるあざやかさこそないものの、そ

の落ち着いた朱の色合いは、しみじみとしたぬくみがあり、本格な冬枯

れの前の秋の風物ふうぶつとして、自然と女の目をきつけた。横浜駅の喧騒けんそう

から離れて、それほど遠くない場所にこぢんまりとあるこの紅葉もみじは、

通りすがりにるのに丁度ちょうどいい。拝観料などをとられて、長い行列の

先にあるのをつかに楽しむのと違い、日常のありふれた景色の中に

ある。それも、時間を気にせずにることができるのだ。女は紅葉もみじ

美しさをに留めようと目蓋を閉じた。女はしばらくの間その場を動

かなかった。やがて心を決めたようにうなずくと紅葉映もみじばえのする階段をふ

たたび上りはじめた。




女の住んでいる古いアパートは、坂の上の石碑を通り過ぎた先にある。

石碑には「神奈川台関門関跡、袖ヶ浦見晴所」と、ある。このあたりは、

かつて旧東海道の「神奈川宿かながわじゅく」と呼ばれていたところで、高台から海

をのぞむ景勝地であったらしい。長く緩やかな坂道は宿場町の面影おもかげ

残しながら、高層建築の間をぐと伸びている。石碑を通り過ぎ

ると女の足取りも自然早くなる。きアパートに帰り着くのだ。この

女も好きで夜に外出をしているのではない。女は、マスクの下に人に

見せられぬ奇形を隠しているのだ。女の鼻の下には三つも口がある。

それもついているだけならなもので、口は、それぞれが独立

した個性を持っている。地味でおとなしい女の性分しょうぶんとは異なり、どの

口も性格が悪い。陰湿いんしつでじめじめ根暗ねくらつらぬいている口、気短きみじか些細ささい

ことでも声を荒げる口、気位きぐらいが高いのか偉そうにしている口、騒々し

いこれらの口が、一つの顔の中に三つも存在しているのだ。口は、互

いに嫌いあっていることもあって、暇さへあれば他の口をののる。顔の

中で主導権を握ろうと、ことあるごとに喧嘩けんかをするのである。




女は口からの要求をすべて受け入れざるをえなかった。口を使うのには

いちいち許可がるのだ。嫌でも口のどれかを借りなければ、食べる、

話す、といったことできないのだ。女は口の決めた順番ルールに従

い心をもたぬ人形のように動くより他なかった。口はその声にも違い

があった。それらは、女の元の声と似ても似つかぬものであった。高

い声、低い声、しわがれた声、男か女かも分からぬ声、他人の声が、自分

の口を借りて勝手に出てくるのだ。女は身体のなかで別な三人と同居

しているのである。




毎食ごとの歯磨きすらも容易ではなかった。女は、磨かなければなら

ぬ口が三つもあるのだ。女は、口の要求にこたえるべく、口の手入れは

入念にしている。口が乾燥してひび割れたり、皮むけしたりしな

いように、クリームで保湿するのは当然なことで、それを寝しなにも

口が満足するまで塗り込む。一度、なにかの拍子に口に静電気が走っ

たことがあった。その時の口の慌てぶりと怒りは相当なもので、口は

女の鼓膜こまくが破れんばかりに騒ぎ立てた。口は、歯磨き粉の味に

好みがあった。甘いだの辛いだのとやかましいことをいう。女は口の好み

に合わせて歯磨き粉を使い分けるようにし、ついで、提案された歯間

ブラシも使うようになった。歯間ブラシは、慣れるまでかなり時間が

かかった。失敗もあった。歯間に糸がはさまってぐいぐいと引っ張って

いるうちに、歯肉が破れて出血した。口が悲鳴を上げると女は手を止

め口に謝まった。歯肉がれてひどくしかられた。「血の味がする」と、

歯肉のれた口が女を非難した。女は、顔をしかめた。頬の内で舌がし

きりと動いている。口は、れたところがよほど気になるらしくそこ

めまわしているのだ。女と口は視覚を共有しているので、口を

すすいだ際に血の混じりがあるのを見て他の口が怖気おじけづいた。明日は

我が身と歯間ブラシを要求することをめた。三つの口のワガママが

過ぎるので、女は罰として歯磨きをやめたことがあった。きれい好き

の口が不平をらしたが、女は無視を決めこむと一週間ほど歯ブラシ

を入れなかった。寝起きの口のネバつきと口臭が、日を追うごとに女

を苦しめるようになった。女は、しぶしぶと歯磨きを再開した。口は

「それみたことか」と女をわらった。






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