三つ口の女
下町のカクレヲン
第1話
その日、女は神奈川区台町にある長い階段の途中でふと足を止めた。
女の見上げた先には
の壁沿いにぽつと出た外灯のとぼりの下を、
深みを
の落ち着いた朱の色合いは、しみじみとした
れの前の秋の
から離れて、それほど遠くない場所にこぢんまりとあるこの
通りすがりに
先にあるのを
ある。それも、時間を気にせずに
美しさを
かなかった。やがて心を決めたように
たたび上りはじめた。
女の住んでいる古いアパートは、坂の上の石碑を通り過ぎた先にある。
石碑には「神奈川台関門関跡、袖ヶ浦見晴所」と、ある。この
かつて旧東海道の「
をのぞむ景勝地であったらしい。長く緩やかな坂道は宿場町の
残しながら、高層建築の間を
ると女の足取りも自然早くなる。
女も好きで夜に外出をしているのではない。女は、マスクの下に人に
見せられぬ奇形を隠しているのだ。女の鼻の下には三つも口がある。
それもただついているだけならましなもので、口は、それぞれが独立
した個性を持っている。地味でおとなしい女の
口も性格が悪い。
ことでも声を荒げる口、
いこれらの口が、一つの顔の中に三つも存在しているのだ。口は、互
いに嫌いあっていることもあって、暇さへあれば他の口を
中で主導権を握ろうと、ことあるごとに
女は口からの要求を
いちいち許可が
話す、といったことさへできないのだ。女はただ口の決めた
い心をもたぬ人形のように動くより他なかった。口はその声にも違い
があった。それらは、女の元の声と似ても似つかぬものであった。高
い声、低い声、
の口を借りて勝手に出てくるのだ。女は身体のなかで別な三人と同居
しているのである。
毎食ごとの歯磨きすらも容易ではなかった。女は、磨かなければなら
ぬ口が三つもあるのだ。女は、口の要求に
つど入念にしている。口が乾燥してひび割れたり、皮むけしたりしな
いように、クリームで保湿するのは当然なことで、それを寝しなにも
口が満足するまで塗り込む。一度、なにかの拍子に口に静電気が走っ
たことがあった。その時の口の慌てぶりと怒りは相当なもので、口は
女の
好みがあった。甘いだの辛いだのと
に合わせて歯磨き粉を使い分けるようにし、ついで、提案された歯間
ブラシも使うようになった。歯間ブラシは、慣れるまでかなり時間が
かかった。失敗もあった。歯間に糸が
いるうちに、歯肉が破れて出血した。口が悲鳴を上げると女は手を止
め口に謝まった。歯肉が
歯肉の
きりと動いている。口は、
を
すすいだ際に血の混じりがあるのを見て他の口が
我が身と歯間ブラシを要求することを
過ぎるので、女は罰として歯磨きをやめたことがあった。きれい好き
の口が不平を
を入れなかった。寝起きの口のネバつきと口臭が、日を追うごとに女
を苦しめるようになった。女は、しぶしぶと歯磨きを再開した。口は
「それみたことか」と女を
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