51話 狩り場の魂
俺は女性を背負い、草木をかき分けながら来た道を急いで戻っていた。
リアムが黒爪猿と戦っている今のうちに、彼女を安全な場所へ――いや、せめて村へ近づけておかなければならない。
そして、できるだけ早くリアムの援護へ戻らなければ。
枯れ葉を踏む音が焦りとともに速くなる。
背中の女性の体温が、微妙に下がっていくのを感じた。
嫌な胸騒ぎがする。
その時、森の密度が急に変わった。
視界が開けた。
「……なんだ、ここ」
数分前まで歩いていた獣道とは似ても似つかない。
ここだけ森の気配が“歪んでいる”。
空気が重い。湿り気の質が違う。風が止まっている。
そして――目の前に、苔と蔦で覆われた古い祠があった。
自然に飲まれかけているはずなのに、なぜか“呼吸しているような存在感”を放っている。
「なんで……ここに?」
道を間違えるはずはない。
さっき俺が押しのけた草木の跡がしっかり残っている。
それなのに、たどり着いているのは、絶対に来ていないはずの場所。
つまり――
“道の方がズレた” とでも言うように、森そのものが俺を誘導したかのようだった。
胸の奥にどす黒い不安が走る。
その時だ。
「ふふ……」
空気を震わせる、湿った笑い声が、どこからともなく弧を描くように響いた。
俺は即座に剣に手を置く。
「誰だ!」
森は返さない。
代わりに、静寂が急激に濃くなった。
祠の裏の影が、ゆっくりと揺れた。
木漏れ日がわずかに差し込み、そこに立つ姿を映し出した。
見覚えのある人物――白髪まじりの髪を三つ編みにし、淡い青のローブを纏った、ラーム村のポーション屋の老婆。
「……嘘だろ。なんで、あなたがここに?」
背中に冷たい汗が流れ落ちた。
彼女はしばらく無表情のままこちらを見つめていた。
だが――。
裂けるような音とともに、その口元が大きく歪む。
「どうして、だと?そんなの……決まっているだろうに」
低く、湿った声。
聞き慣れたはずの声音なのに、明らかに“別の何か”が混じっている。
老婆の瞳が、ゆっくり祠の奥を指すように動いた。
「ここはね……私の所有地さ。魂と魂が“繋がる場所”なんだよ……コウガ坊や」
空気が波打つように揺れた。
女性の体が背中でびくりと震える。
体温が一瞬で冷え込んだ。
――わかる。
この“祠”はただの祠じゃない。
ここはきっと――
魂が縛られ、交換され、奪われる場所だ。
足元の土のざらつきさえ、生き物の皮膚のように感じられる。
祠の石壁には細い裂け目が走り、そこから立ちのぼる淡い光が、まるで“息をしている”ように脈打っていた。
ここに迷い込んだのは偶然じゃない。
誰かが意図的に、俺を――“魂ごと”ここへ誘った。
背中の女性の体が、不自然に冷えていくのを感じた。
まるで彼女自身が、この祠に呼ばれた器のように。
そして――老婆が次に発した言葉が、空気を凍りつかせた。
「さあ……始めようか。“魂”の儀式を」
老婆は両腕を天へと広げた。
関節が鳴るほど不自然に反り返り、指先はまるで糸を操る人形師のように震えている。
その動きそのものが“合図”だと分かった。
俺は真剣に手をかけた。
抜かなきゃまずい。
一瞬遅れれば、俺か、この女性の魂が持っていかれる。
けれど――抜けなかった。
耳元で、リアムの声が聞こえたからだ。
距離のはずれた森の奥から、ではない。
もっと近い。
心臓の内側に直接、響いてきた。
「ディスティニー――
その呟きが祠の中心に落ちた瞬間、
周囲の空気が“ひっくり返った”。
祠を取り囲む石柱の影から、光の球体が次々と浮かび上がる。
それはただの光じゃない。
一点一点が、脈を打つように震え、まるで心臓の鼓動のように明滅している。
やがて十数個の球体が、
俺と老婆と祠を包み込むように、渦を巻いて高速で回転を始めた。
耳鳴りが“声”に変わる。
知らない男の絶叫。
泣き叫ぶ子どものすすり泣き。
祈りの言葉。
断末魔。
その全てが、俺の鼓膜の奥で混じり合い、脳に直接流し込まれてくる。
――魂の残響だ。
老婆はゆっくりと俺に顔を向け、
狂気と歓喜が混ざった笑みを浮かべた。
「さあ……あなたの魂も、その渦へ落ちておいで」
その瞬間、俺の背筋は冷たく硬直した。
これは儀式なんかじゃない。
もっと原始的で、もっと残酷な――
魂の“狩り場”だ。
老婆は指先をしならせ、まるで見えない弦を弾くように腕を振った。
その動きに応じて、周囲を旋回していた光の球――魂の残滓が、
曲に合わせる楽団のように軌道を変える。
「さあ……踊りなさい。狩りはこれからだよ」
老婆の指が空を切るたび、魂は唸る音を立てて進路を切り替え、
生き物のように俺と背中の女性へ向かって迫ってくる。
渦を巻くたび、空気が削り取られるように薄くなっていく。
息が浅くなる。
頭が締めつけられる。
魂そのものを掘り出されるような感覚に、視界がじりじりと滲む。
――吸われている。
俺の“内側”にある何かが、
無理やり祠の中心へ引きずり出されようとしていた。
『コウガ!』
リアムの声が、再び胸の奥に叩き込まれる。
その瞬間、渦の中の魂の一つが弾け、青白い閃光が散った。
老婆の口元が、快楽のように歪む。
「いいね……!あなたの魂は、とても強い……!」
さらに指先が舞った。
魂の群れはより密に、より速く、より鋭く。
もはや光などではない――
捕食者そのものの軌跡だ。
次の瞬間、渦の中心から一本の“カギ爪のような光”が伸び、俺の胸元へ一直線に――。
だが、カギ爪のような光は、俺の胸に触れる寸前で――まるで何かに弾かれたように霧散した。
「……え?」
俺自身が驚いて動きを止めた一瞬。
「どういうことだい!?」
老婆の声は、怒りと恐怖と困惑が混ざりあった、聞いたこともない濁った叫びだった。
彼女は指先を激しく振り直す。
残された魂の球を一斉に俺へと向ける。
空気が震え、地面の苔が剥がれるほどの圧力が押し寄せる。
しかし――
魂たちは触れる前にまた、花びらのように砕け散った。
老婆の目が大きく見開かれる。
「馬鹿な……そんな、そんなはず……!“外側の魂”が拒絶されるだって……!?あの子の身体は“空っぽ”のはずなのに……!」
――外側?
――空っぽ?
意味がわからない。
だが、俺の中で何かが疼く。
胸の奥底が熱い。
脈が、内側から叩かれているように速くなる。
老婆は震える声で呟いた。
「まさか……“二つある”というのかい……?
魂が……」
俺の体の奥から、低く唸るような音が響いた。
自分自身のものではない。
だが、確かに俺の中から聞こえる。
「……っ!」
老婆は一歩後ずさった。
さっきまで余裕たっぷりだった笑みは完全に消えている。
「嘘だろう……!魂の器が二重なんて……“あの方”でもあり得ない……!」
老婆が後ずさるたび、祠の周囲に浮かんだ魂の残光がゆらゆらと揺れる。
まるで何か得体の知れないものから逃げようとしているように。
そのとき。
俺の背にしがみつくように抱えていた女性の身体が、
ぴくり、と震えた。
まるで俺の中の“何か”に反応するかのように――
呼び合うように。
「……なんなんだ、これは」
疑問が喉まで上る。
だが、考えている暇は無い。
老婆の目が、再び狂気じみた光を取り戻しつつあった。
「やっぱり……あなたは“供物”じゃない……!ならば――器ごと奪えば……!」
――まずい。
もう一度来る。
老婆の足が前に踏み出される。
その瞬間。
「もう、いい」
俺は迷いを断ち切った。
背中の女性を片腕でしっかり支えると、
反対の手で腰の真剣を――鞘ごと引き抜いた。
抜いてはいけない。
だからこそ、鞘で殴る。
呼吸を一つ整え、地を蹴る。
老婆の目が見開かれた。
「なっ――」
呻き声が漏れるより早く、俺は全身の勢いを乗せて、鞘の先端で老婆の首の後ろを思いきり叩きつけた。
鈍い衝撃音が、祠の静寂に短く響く。
老婆の身体がふらりと揺れ、次の瞬間、糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。
俺は息を吐き、真剣を握る手を少しだけ緩めた。
「……っふ。危なかったな」
だが、終わりではない。
倒れた老婆の周囲には、まだ霧のように魂の残滓が漂っている。
背の女性の震えも、完全には止んでいない。
祠の奥――何かが、まだ動いている気配がする。
そして俺自身の胸の奥では、
さっき聞こえた“低い唸り”が、
今もなお消えずに渦を巻いている。
背中で揺れていた女性の身体がかすかに震えた。
胸の奥で、低く唸るような感覚が走る。
自分のものではない――確かに、もう一つの魂が反応しているのだ。
「……っ!」
老婆は地面に崩れ落ち、息絶えているかのように見えた。
だが、霧のように漂う魂の残滓は、まだ祠の中心で渦を巻き、ゆらゆらと動いていた。
その粒子は青白く、かすかな光を放ちながら、まるで何かを探すかのように漂っている。
「……これは……?」
俺は背中の女性を抱え直しながら、真剣を腰にかける。
冷たい唸りが再び胸を突き上げ、自然と体が硬くなる。
もう一人の俺――記憶を失う前の自分なのか、それともこの魂の一部なのか。
答えはまだわからない。
その瞬間、背中の女性の内側で何かが弾けた。
俺の感覚を超えるような力が、彼女の身体を突き上げる。
「ディスティニー、
女性の背中から漆黒の翼が生え、ゆっくりと羽ばたき始めた。
羽根は月夜の影のように深く黒く、先端には微細な光の粒子が散りばめられている。
羽ばたくたびに周囲の空気がざわめき、森の木々を越えて、宙高く舞い上がった。
その光景は、まるで魂そのものが具現化したかのようで――霧の渦と黒い翼、二つの力が互いに呼応し、空間に緊張を走らせる。
俺は息を呑む。
これまで戦ってきた魔物や黒爪猿とは違う――これは、人の“力”ではない。
魂が覚醒した瞬間そのものだ。
背中の女性にしっかりとしがみつく。
意思でこうなっているわけではない。魂と身体が融合し、制御を失って暴走しているのだ。
どうすればいい……?
暴走しているなら、落ち着かせる。
それしかない――。
「しっかりして、俺がいる……!」
俺は背中に手を添え、軽く圧をかけながら呼吸を合わせる。
ゆっくりと、深く――俺の胸の鼓動を彼女に伝えるように。
心の奥で低く唸る魂の声に耳を澄ませる。
恐怖、混乱、焦燥――そのすべてを、言葉にして受け止める。
――「大丈夫だ、怖くない。俺がここにいる」
――「暴れなくていい、俺たちは一緒だ」
繰り返し囁く。
背中の震えが、わずかに弱まったのを手のひらで感じる。
黒い翼はまだ宙を揺らしているが、その力は少しずつ落ち着きを取り戻す。
ゆっくりと羽ばたきが小さくなり、宙に浮かぶ彼女の身体が、まるで俺の存在に呼応するように揺れる。
霧のように漂う魂の残滓も、渦を巻きながら徐々に沈静化していく。
「いいぞ……そのまま、落ち着け……」
俺は背中を支え、翼や体の力をやわらげるように軽く圧をかける。
呼吸を合わせ、心を合わせ、魂と魂を繋ぐ――今はただ、それだけに集中する。
背中の女性の身体がわずかに震えながらも、次第に静かになった。
確かに感じる。
暴走は収まりつつある。
だが完全に安定したわけではない。
胸の奥の低い唸りは、まだ微かに残っている。
「……大丈夫か?」
背中に伝わる細かな振動が、少しずつ穏やかになっていく。
魂と身体が互いに呼応し、調和を取り戻しつつあるのがわかった。
今、この瞬間――暴走の“渦”から彼女を引き戻すことに成功した。
その瞬間だった。
女性の黒い翼が、音もなく“ほどけた”。
羽根の一枚一枚が光の粒となって散り、夜空の星に還るように消えていく。
そして、俺たちは無防備のまま空へ投げ出された。
「……え?」
翼の消失と同時に、彼女の身体から支えていた力がふっと消えた。
まるで糸が切れたように脱力し――
「ちょ、待て……これ落ちるだろ!」
俺の腕の中で、完全に意識を手放した彼女の身体がぐらりと傾く。
落下するのを必死に抱き直し、体勢を立て直そうとするが、空中でのバランスは悪い。
森の木々の向こう、地面は思った以上に遠く、二人の身体が空中で揺れている。
「やば……ッ!」
背中の女性と共に、落下の恐怖が直に心臓を締め上げる。
このままじゃ――二人とも、地面に叩きつけられてしまう。
「コウガ…ッ!」
遠くから、叫びが響いた。リアムの声だ。
空気を切り裂くようなその声に、思わず息を呑む。
「今、助ける!」
リアムは胸の前で人差し指と中指を立て、静かに詠唱する。
指先から微かな光が生まれ、森の影と呼応するように広がった。
「僕に力を授けてください。ディスティニー——
森の木々の影が、まるで意思を持つかのようにうねり始めた。
枝や幹の黒い影が伸び、俺と背中の女性の身体をそっと包み込む。
その感触はただ支えるだけではなく、冷たく湿り、まるで生き物の手が触れているかのように柔らかく、同時にしっかりと圧を加えていた。
背中に伝わるその感覚は、恐怖と安心が入り混じった奇妙な感覚だった。
ふわりと空中に浮かび、心地よい重みが背に伝わる。
張りつめていた心が、少しずつ解けていくのを感じた。
背中の女性もまた、俺の腕に寄せる力を緩め、微かに呼吸を整え始めている。
「……リアム……!」
重力に引かれ落ちる恐怖は一瞬にして消え、影が二人を宙に安定させる。
枝葉のざわめきと共に、影の波紋が地面へと連鎖し、まるで空中に浮かぶ安息の場を作り出したかのようだった。
俺は背中の女性を抱き直し、影の力で揺れる身体を支える。
胸の奥に、リアムの力が届いている――確かに、二人を守る力が。
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