42話 草原の蹄と星の誓い
帰り道は洞窟を無事に抜け、太陽はまだ空の高い位置に少し傾きかけていた。
その光に照らされ、リアムの表情はどこか柔らかく見える。
俺たちはしばらく黙って歩いたが、互いに安心感を確かめ合うように、自然と肩が触れ合う距離で進んでいた。
途中、小川沿いの道に出る。草の香りと水のせせらぎが心地よく、時折吹く風が髪を揺らす。
木々の間から差し込む陽光が川面に反射し、光の粒が舞うようにきらめいていた。
「……なんか、さっきまでの緊張が嘘みたいだな」
俺が呟くと、リアムは目を細めて笑った。
「うん。でも、そういう時間も悪くないでしょ?」
「まぁな。戦いの後の静けさって、変に落ち着く」
「コウガって、本当に変なところで冷静だよね」
「よく言われる」
リアムがくすっと笑い、俺もつられて笑った。
ほんの少し前まで命を懸けて戦っていたはずなのに、今は穏やかで、嘘のように平和な時間が流れている。
互いが触れてはいけないラインを知っているからこそ、何も言わずに笑い合える――そんな空気だった。
やがて、小高い丘に差しかかると、草原の向こうに馬小屋が見えてきた。
リアムがふと足を止め、振り返る。
「ねえ、コウガ。少し寄り道しようか」
「寄り道?」
「ほら、あそこ。馬の練習場。前に“乗れない”って言ってたよね?」
「……ああ、あれか。いや、あれはその……バランスが苦手でな」
「じゃあ今日、練習してみようよ」
リアムは迷いのない笑顔を見せた。
俺は思わずため息をついた。
「今から? 戦闘の後で?」
「今だからこそ。体がまだ動くうちにね」
結局、押し切られる形で馬小屋へ向かうことになった。
柵の向こうでは、茶色い毛並みの馬が静かに草を食んでいる。
リアムは慣れた手つきで手綱を取り、馬の首筋を優しく撫でた。
「この子は“アスト”。おとなしいから、初心者でも乗りやすいよ」
「アスト、……よろしく頼む」
馬は小さく鼻を鳴らし、まるで挨拶を返すように首を振った。
その仕草に、少しだけ緊張が和らぐ。
「じゃあまず、足をここにかけて――鞍の上に体を預けて」
リアムが丁寧に手順を示す。
言われた通りに動こうとするが、初めての感覚に体がぎこちない。
「よし、いくぞ……うわっ!」
バランスを崩して尻もちをつく。
「ははっ! 惜しい、あとちょっとだったのに」
リアムが笑いをこらえながら手を差し出す。
「笑うなよ……結構痛いんだからな」
「ごめんごめん。でも本当にいい線いってたよ」
何度か挑戦しているうちに、ようやく鞍にしっかり体を乗せることができた。
リアムは手綱を支えながら、俺の姿勢を確認する。
「背筋を伸ばして、視線は遠く。そう、地面じゃなくて風を感じるように」
「風を感じる……?」
「うん、馬は人の緊張をすぐに感じ取るからね。力を抜いて」
深呼吸をして、手の力を少し緩めた。
その瞬間、馬がゆっくりと歩き出す。
「おお……動いた!」
思わず声が出た。
馬の背に揺られながら、俺は自分の体の重みと向き合っていた。これまで感じたことのない感覚――風と蹄のリズムが、どこか記憶の奥に触れるようで、胸が少し温かくなった。
リアムが微笑む。
「ね、言ったでしょ?怖くないよ」
最初はぎこちなかったが、徐々に体がリズムに馴染んでいく。
地面を蹴る蹄の音が心地よく響き、夕方の風が頬を撫でた。
「リアム!見ろよ、俺、ちゃんと乗れてる!」
「うん、上出来だよ!」
リアムが拍手をしながら、俺の横を軽く走る。
彼の笑顔が、どこか子どもみたいで――それが妙に嬉しかった。
何度か方向を変えて歩くうちに、太陽はゆっくりと傾き始める。
草原が黄金色に染まり、風の匂いが少し冷たくなる。
「……なあ、リアム」
「うん?」
「こういう時間も、悪くないな」
「ふふ、でしょ?」
馬の背から見下ろす景色は、まるで世界が少し広がったようだった。
グリト村の屋根が遠くに見え、森の向こうでは鳥たちが帰り支度をしている。
その光景を見ながら、胸の奥で何かがほどけていくような感覚がした。
「俺さ、戦うことばっかりで、こういう“普通”って感覚、忘れてたかも」
「……うん、僕もそう。だから、こうして笑って帰れる日があると、少し安心する」
リアムは少し照れたように言い、空を見上げた。
茜色の光が頬を照らし、その横顔がどこか儚く見える。
沈黙が流れる。
けれど、それは気まずさではなく、胸の奥が静かに満たされていくような、穏やかな沈黙だった。
馬の蹄が草原を踏みしめる音だけが、一定のリズムで響いている。
夕陽が傾き、風が二人の髪をやわらかく揺らした。
そのとき、不意に胸の奥がざわめいた。
どこか懐かしい――そんな感覚。理由もわからず、心の奥底が微かに疼く。
「……あれ?」
思わず漏れた声に、リアムが首を傾げる。
「どうかした、コウガ?」
「いや……なんか、急に……懐かしい感じがしてさ。景色を見てたら、何か……思い出しそうな気がした」
リアムは少し驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに笑った。
「……それは、もしかして――記憶が戻りかけてるのかもね」
「……かもな」
言葉にしてみると、胸の奥に小さな熱が灯った。
ぼんやりとした靄の中に、ほんの一瞬だけ光が差したような――そんな感覚だった。
リアムが柔らかく微笑む。
「なら、今日の寄り道も無駄じゃなかったね」
「……そうだな」
二人は顔を見合わせ、自然と笑みを交わした。
沈みゆく陽が二人の影を長く伸ばし、その光景が不思議と懐かしく見えた。
まるで――昔、どこかで同じ夕暮れを一緒に見たことがあるような、そんな気がしていた。
やがて、太陽が地平線の向こうへ沈みかけたころ、リアムが軽く口笛を吹いた。
「そろそろ帰ろうか。ウィーシュ、心配してるだろうし」
「そうだな。……でも、もう少しだけ、このままでいたい気もする」
リアムは笑って頷く。
「じゃあ、もうひと回りだけ。今日の夕陽、特別きれいだから」
馬を並べ、二人で夕陽に向かって歩き出す。
風が頬を撫で、馬のたてがみが金色に揺れる。
言葉はいらなかった。
ただ、同じ景色を見て、同じ時間を感じていることが、何よりも嬉しかった。
村の灯りが見え始めたころ、リアムがぽつりと呟く。
「ねえ、コウガ。ありがとう」
「何が?」
「今日、来てくれて。……あの場所を、一緒に見てくれて」
「……こっちこそ、ありがとう。リアムがいなかったら、俺、途中で挫けてた」
リアムはふっと笑い、夕陽を背にして答えた。
「そう言ってもらえるなら、今日の努力も報われたかな」
二人の笑い声が、風に乗って草原の奥へと溶けていく。
その音が消えるころには、空はすっかり茜から群青へと変わり、
グリト村の灯が遠くで静かに瞬いていた。
俺たちは並んで村へ帰っていく。
穏やかな夜風が頬を撫で、今日という一日が確かに終わりへ向かっているのを感じた。
けれど、胸の奥には不思議と温かいものが残っていた。
恐怖や悲しみの中でさえ、こうして笑える時間がある――
そのことが、何よりの救いだった。
リアムが横で小さく呟く。
「明日も、いい日になるといいね」
「きっと、なるさ」
俺はそう答え、夕暮れの空気に溶けていく。
黄金に染まった草原の向こう、夜の帳がゆっくりと降り始めていた。
///
グリト村まで、あと少し――。
夕陽が山の向こうへ沈みかけ、空は茜色から紫へと移ろっていく。
そのとき、リアムがふと足を止めた。
「ねぇ、コウガ。せっかくだし……もう少し寄り道しない?そうだ、焚き火をしよう」
「焚き火?」
思いがけない提案に、俺は少し目を瞬かせた。
リアムはいたずらっぽく笑う。
「うん。村に着く前に、少しだけ休憩。空気も澄んでるし、きっといい火がつくよ」
「……いいな、それ」
俺は頷いた。草の香りと夕風が心地よく、焚き火の準備にはぴったりの時間だった。
「まずは乾いた枝を探して……そう、そんな感じ」
リアムに教わりながら、俺は枝を集め、火打石の扱い方を真似してみる。
「こうか?……いや、違うな。火花が出ない」
「手首の角度を少し変えて――そう、いい感じ!」
ようやく、小さな火花がぱちりと散り、やがて細い煙が立ちのぼった。
リアムが手を添えて風を送り、炎は少しずつ息を吹き返すように揺らめく。
「……ついた」
「うん、初めてにしては上出来だよ」
リアムが微笑む。
橙の光が彼の横顔を柔らかく照らし、その表情はどこか温かく見えた。
俺は炎を見つめながら、小さく息を吐く。
「焚き火って、こんなに綺麗なんだな……」
「うん。火って不思議だよ。怖いのに、見てると落ち着く」
「……そうだな。昔、火を見るのが怖かった時期があった気がする。でも、今は――あたたかいって思える」
自分でも驚くほど自然に、そんな言葉が口をついた。
リアムは少し驚いたように俺を見つめ、それから静かに笑った。
二人の間に、静かで柔らかな時間が流れる。
ぱち、ぱち、と木がはぜる音だけが、暮れかけた空に溶け込んでいく。
そよ風が髪をやさしく揺らし、川のせせらぎが耳をくすぐる。
木々の間から差し込む夕陽は川面をきらきらと照らし、遠くで鳥が鳴くたびに、時間の流れに軽やかなリズムを添えていった。
炎を見つめながら、俺はふと思い出す――誰かと火を囲んだ日のこと。
はっきりとは思い出せないけれど、その暖かさや笑い声の残り香が、胸の奥にかすかに漂っているような気がした。
無意識に手を握りそうになる衝動を抑えつつも、言葉にしなくても互いの存在を感じられる安心感に、自然と頬が緩んだ。
///
ふと胸の奥がひんやりと疼き、理由もわからないのに心臓が早鐘を打った。
まるで遠くで誰かが助けを求めている――そんな気がしてならなかった。
いつの間にか、周りはすっかり夜になっていた。
焚き火の炎が静かな音を立て、橙の光が風に揺られて踊る。
火が一番高く燃え上がったとき、リアムの口が静かに開いた。
「……僕には、もう一人、幼馴染がいたんだ。今度は同い年の子」
焚き火の光がリアムの横顔を照らし、その瞳の奥で影が揺れた。
「僕とその子は、生まれたときから、ずっと一緒だった。笑って、泣いて、ケンカして……でも、それは長くは続かなかった」
リアムは炎から目を逸らし、膝の上で手を組んだ。
「ある日突然、その子に濡れ衣を着せたやつがいた。まったく無関係な罪を――あの子は何も悪くなかったのに」
その声には、怒りよりも悔しさが滲んでいた。
焚き火の音が間を埋めるように、ぱちりと弾ける。
「僕はそいつを……許せない。きっと今もどこかでのうのうと生きてる。でも、不思議と、復讐しようとは思えなかったんだ」
リアムはゆっくりと右手を炎にかざした。
その掌に、火の赤が滲む。
「やり返したら……あの子は悲しむからね」
その言葉のあとの沈黙が、やけに長く感じられた。
リアムの横顔は悲しげで、けれど、どこか決意にも似た強さを宿していた。
「もし彼女が生きているとしたら……きっとヴィアルにいる。だから僕は、騎士団の騎士にならなきゃいけないんだ」
焚き火の明かりが、握りしめたリアムの拳を照らす。
「ちょうど僕の適性は“剣士”だった。少しは楽だったけど……それでも、今も辛いよ」
リアムは顔を上げ、まっすぐ俺を見た。
「コウガ――僕と一緒にエルヴィエまで来てほしい。そして、一緒に騎士団に入ってほしい」
その瞳はまるで、夜空を貫く光のように真っ直ぐで、
俺の心を射抜くようだった。
「……これは僕のわがままだって分かってる。でも……君となら、何だってできる気がするんだ」
リアムは夜空を見上げた。
星々が瞬くその空を見つめながら、かすかに笑う。
「あの星のように、君は僕には輝いて見えた。だから――これが僕からの最後のお願いだ。コウガ……」
俺は迷わなかった。
胸の奥から、自然に言葉がこぼれた。
「リアム……俺は、エルヴィエに一緒に行く」
言葉を口にした瞬間、胸の奥の霧が少し晴れたような感覚がした。恐怖も不安もあったけれど、それ以上に――リアムとなら何でも乗り越えられる気がした。
リアムは一瞬、息を呑む。
「え……?本当に?」
「ああ」
その一言に、リアムの顔がぱっと明るくなる。
次の瞬間、彼は勢いよく俺に抱きついてきた。
「ありがとう……!本当にありがとう、コウガ!」
俺も思わず笑って、彼を抱きしめ返す。
「そんなに感謝されると、照れるな」
「だって……断られると思ってたんだから」
リアムは少し体を起こし、俺を見上げた。
「僕と来るってことは、きっと過酷な道を歩むことになるよ」
「まあ、そうかもな。でも――リアムといると、落ち着くんだ」
俺は夜空を見上げた。
無数の星が瞬き、風が焚き火の煙を遠くへ運んでいく。
「いつか記憶を取り戻せるように……俺は、リアムといたいんだ」
その言葉に、リアムは静かに目を細めた。
「……ふふ。じゃあ、早速村長に報告しなきゃね」
「ああ、そうだな」
二人で星空を見上げた。
夜は静かで、どこか世界が止まったようだった。
――そのとき。
胸の奥で、誰かの叫び声が響いた。
痛みでも恐怖でもない。けれど確かに、俺の中の“何か”が震えていた。
焚き火のぱちぱちという音が、遠くでかすんでいく。
夜風が頬を撫で、星々がかすかに滲んで見えた。
「……誰の声だ?」
リアムは心配そうに首をかしげる。
「どうしたんだい、コウガ?」
「どこからか、誰かの叫び声が聞こえた気がする」
「……僕には聞こえなかったけど……」
その言葉を待たずして、村の方から轟くような爆発音が響き渡った。
地面が揺れ、森にいた小鳥たちが一斉に飛び立つ。
「――なっ!?」
リアムと俺は顔を見合わせた。
炎の光に照らされた彼の瞳に、驚きと不安が交錯する。
辺りの空気が、突如として鋭く張り詰めた。
夜の静寂が、破裂音とともに引き裂かれるようだった。
「コウガ……急ごう、村へ!」
リアムは言葉少なに、俺の手を強く握った。
焚き火の温もりが、今は全く届かない。
その手の感触が、唯一の安心だった。
俺もすぐに頷き、火のそばの道具を放り出して立ち上がる。
心臓が激しく打ち、頭の奥であの叫び声がまだ余韻のように鳴り続けている。
「まさか、村が――」
言葉を飲み込み、二人は夕闇に包まれた道を駆け出した。
星空の下、草の匂いと風の感触が、もはや何の慰めにもならない。
ただ、村へ――誰かを、そして、あの声の正体を確かめるためだけに――走る。
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