30話  やっと、笑ったな

時間が、一瞬止まったように感じた。

風の切れる音が、耳の奥で鈍く響く。


――間に合わない。


その瞬間、白い閃光が視界を貫いた。


「……っ!」


何かが弾ける音。

俺を押さえていた黒沢の体が、勢いよく横へ吹き飛ばされる。

空気が一瞬焦げたように歪み、死神の鎌が砕け散った。


「っあぶない……!間一髪ってとこだね」


聞き覚えのある、柔らかい声。

振り返ると、茶色の髪をふわりと揺らした少女が立っていた。

胸元まで伸びた髪にネイビーのカチューシャ。

甘い香りが、戦場の血の匂いを一瞬だけかき消す。

手には薙刀を持っている。


「美奈先輩……!」


彼女は口元に指を当て、いつものように微笑んだ。

その笑みは穏やかで――けれど、その瞳は冷たく澄んでいた。


「久しぶり、如月くん。これ相手に無茶しすぎ」


言いながら、彼女の右手に淡い光が灯る。

魔紋をなぞるように空気を操り、残っていた死神たちをまとめて吹き飛ばした。

紫乃が目を丸くして、震える声で言う。


「……あ、あの人……こうちゃん、の……お仕事の人……?」


その声に、俺は息を詰めた。

紫乃は名前すら知らない。

ただ“俺と一緒にいたことがある女性”としてしか、佐南を覚えていない。


「大丈夫?」


女性――佐南は穏やかな笑みを浮かべ、俺と黒沢の間にすっと割って入った。


その所作は柔らかく、風のように滑らかだった。

茶色の髪が胸元まで揺れ、ネイビーのカチューシャが光を反射する。

ほんのりと甘い香りが漂ったそれは、戦場には不釣り合いなほど優しい匂いだった。

その瞬間、空気の温度が変わった。


俺は荒い息を整えながら、彼女の横顔を見つめる。

清楚な輪郭。

けれど――その瞳の奥には、確かに“冷たさ”があった。

誰かを助けながらも、同時に何かを見透かしているような眼。


地面に倒れた黒沢が、震える声で呟く。


「……どうして……あなたが……ここに……」


佐南はちらりと彼女に視線を向けた。

その一瞬で、黒沢は言葉を詰まらせる。


「――ごめんね、黒沢さん」


「……あなたも……“向こう側”なの……?」


黒沢の問いに、佐南は微笑を崩さず答えた。


「いいえ。ただ――これが“私の役目”なの」


紫乃が戸惑ったように俺の袖を掴む。


「ねぇ……こうちゃん、あの人、何を言ってるの……?」


「……説明はあとだ」


静寂が落ちた。

風が止まり、魔紋が淡く波打つ。

まるで、空気そのものが彼女の存在を中心に動いているようだった。


俺はその光景を見つめながら、悟る。

――佐南は、ただの“助っ人”じゃない。

この街で暗躍する“もう一つの勢力”に属する存在。

俺の知らない目的を抱いて、今ここに立っている。


その背に映る光は、救いのようでいて、同時に人を遠ざける光だった。


俺は喉の奥で言葉を飲み込む。

紫乃を安心させたい気持ちと、佐南に対する疑念が、静かに交錯していた。


鎌を失った死神たちが、再び魔紋から鎌を引き抜き始める。

その足元から、新たな影が幾重にも溢れ出し、波のようにこちらへ迫ってくる。


佐南は静かに息を吸い、微笑を消した。

空気が、張り詰める。


「――一気に終わらせるよ」


その声音に、戦場が凍りついた。

まるで“断罪”という言葉を前に、全ての存在が息を止めたかのように。


断罪だんざい


黒い雲の隙間を裂くように、純白の光が一直線に降り注いだ。

それは雷でも炎でもない――裁きの光。

死神たちは声を上げる間もなく、光の奔流に呑まれ、跡形もなく消えた。


紫乃はその光景を見つめながら、息を呑んだ。

瞳が大きく見開かれ、唇が微かに震える。


「……きれい……」


呟く声は、風に溶けた。

恐怖も驚きも、今だけは消えていた。

彼女の表情には、ただ“圧倒的な美しさ”に見惚れる無垢さだけが残っていた。


俺はその横顔を見て、胸の奥がざわつく。

――この光に、心を奪われるな。

そう思いながらも、俺自身も目を逸らせなかった。


光が収まったとき、戦場には静寂が戻った。

淡い光を背負った佐南の姿だけが、そこに立っていた。


佐南は小さく微笑んだ。

どこか悲しげで、それでも優しさを含んだ笑み。


「もう大丈夫。怖くないよ」


紫乃に向けたその声は温かいのに、

その瞳の奥に一瞬だけ、深い影が走った。


まるで――何かを“切り捨てる”覚悟を隠しているようだった。


「……美奈…先輩?」


声が震えた。

安堵のはずの感情が、胸の奥でうまく形を取らない。

目の前の彼女は確かに優しかった。

けれど、その瞳の奥に――見てはいけない“何か”が揺れていた。


俺の表情も、そこで止まった。

笑おうとして、笑えない。

恐れようとして、恐れられない。

ただ、息を呑んだまま、彼女を見つめていた。


「…… の位置がわかった。いこう、如月くん」


灰色の光の中、佐南の手が静かに伸びる。

掴めば、もう戻れない――そんな予感が胸を刺した。


『如月くん……。佐南隊長は、何かを企んでいる』


なぜ、あなたがそれを?


『佐南隊長が僕の“裏切り”にいち早く気づいていたように、僕もそう感じた』


刀の温もりが、かすかに弱まる。

それは警告のようでもあり、別れのようでもあった。


『ここからはどう転んでも、嫌な予感がする……』


声が遠のく。温もりも、さらに弱くなる。

けれど――これは天命が切れかけている合図ではなかった。


『それでも君は……佐南隊長の手を?』


わからない。

この先、世界が滅びようが――紫乃が生きていてくれれば、それでいいとさえ思った。


だが、手が震える。

俺自身が、選ぶ未来を恐れていた。


それでも――ためらっている時間は、もうない。

天命の残り火が、今にも消えかけている。


俺は息を呑んだ。


『――それが、“君が選んだ”道』


刀の声が、微かに胸の奥で消えていく。

俺は震える指先で、その手を掴んだ。


「よし、行こう。二人とも、私について来て」


佐南は一瞬だけウィンクをして、俺の手を強く引いた。

そのまま灰色の光の中を駆け出す。


「待って!!」


紫乃の叫びが響く。

振り向いた先で、彼女は唇を噛みしめていた。


「……どうした、紫乃?」


息を切らしながら問いかけると、紫乃は小さく首を振った。


私は……かおちゃんと話してから行く」


その瞳は、恐怖よりも――決意に近い光を宿していた。


佐南は静かに目を細め、低く問い返した。


「……それは、何のメリットがあるの?」


その声には、冷たい理性だけがあった。


『如月くん、止めろ……!今の佐南隊長は何をしでかすかわからない!』


刀の温もりが一気に手に伝わる。

まるで、俺の迷いを咎めるように。


紫乃は唇を震わせながら、それでも視線を逸らさない。


「それは……わからない!でも、私はかおちゃんと話をしたいの!」


その答えは、理屈になっていなかった。

けれど――心の底からの叫びだった。


佐南の目が、わずかに細くなる。

彼女の中の“合理”が、紫乃の“感情”を否定しようとする。


「……甘いね。そんな感情で、この状況を変えられると思うの?」


その言葉は刃のように鋭く、紫乃の胸を刺した。

だが紫乃は、俯くことなくその冷たい視線を受け止めた。


「変える変えられないじゃないの!」


紫乃の声が夜を震わせる。


「今……ここで“私が何をするか”が状況を変えるの!」


その瞬間、風が止んだ。

誰も動けなかった。


俺は息を呑み、ただ紫乃を見つめる。

震える肩、濡れた瞳、でもその奥に宿るのは確かな意志。


――そうだ。

彼女はもう、ただ守られる側じゃない。


佐南の眉がわずかに動き、静かにため息を漏らした。


「……ほんと、手のかかる子ね」


その声音には、呆れよりも――わずかな哀しみが滲んでいた。

まるで、自分の中の“優しさ”を認めたくないかのように。


『……佐南隊長が、諦めた?』


刀の声が、困惑を含んで響く。


佐南はゆっくりと紫乃から目を逸らし、振り向いた。

表情はもう、いつもの“隊長の顔”に戻っている。


「……私の部下をここへ向かわせる。紫乃ちゃんのことは任せて」


そして、俺の方を見やる。


「如月くん。――私たちはのところへ行くよ」


その目には、もう一切の迷いがなかった。

まるで、何かを“切り離した”人間の目。


俺は無言で頷いた。

心の奥で、何かが微かに痛んだ。

紫乃を置いていくことも、佐南の“何かを犠牲にしている”ような背中も――。


それでも、進むしかなかった。


#


太陽は厚い雲の向こうで輪郭を失い、世界は灰色に沈んでいた。

焦げた地面から立ちのぼる煙の匂いが、まだ消えぬ戦の記憶を呼び覚ます。


如月と佐南が光の中に消えてから、どれほど経っただろう。

紫乃はひとり、その場に立ち尽くしていた。


「……どうして、行っちゃうの」


掠れた声は風に溶け、誰にも届かない。

それでも、彼女は動かなかった。

行かない理由はひとつ――かおちゃんと話すためだった。


――そのとき。


「……あんた、まだ立ってるのね」


背後から、かすかな声。

振り向くと、黒沢薫がいた。

服は裂け、片腕は血に濡れている。

それでも、瞳だけはまだ燃えていた。


「……かおちゃん……」


「その呼び方、やめてくれる? 虫唾が走る」


冷たい声。

けれどその足取りは、痛みに耐えるようにふらついていた。


「如月たちは、もう行ったのね」


「……うん。でも、私は行かない」


「ふうん。怖くて足がすくんだの?」


「違う。……私、話したいの。かおちゃんと」


黒沢の目がわずかに見開かれたが、すぐに笑みを作った。


「話す?何を今さら」


「どうして――こうちゃんの邪魔をしたの?」


紫乃の声は震えていた。

黒沢の口元がわずかに歪む。


「邪魔?それは違うわ。止めたのよ。あの人の“暴走”を」


「暴走なんてしてない!こうちゃんは……みんなを守るために――!」


「守る?誰を?」


黒沢が食い気味に遮る。


「自分の正しさを信じたいだけの男を、どうしてそこまで信じられるの!?」


「信じるしかないからだよ!」


紫乃の声が弾けた。


「信じなきゃ、何も守れない!誰も救えない!綺麗ごとだわ!」


黒沢が一歩詰め寄る。


「信じるってのは、見たくない現実から目を逸らす言い訳よ!」


「違う!」


紫乃が黒沢の腕を掴む。


「目を逸らしてるのは、かおちゃんのほう!壊れるのが怖くて、全部“理想のせい”にしてるだけ!」


「黙りなさい!」


黒沢の叫びが灰の空を震わせる。


「如月の理想が、どれだけの犠牲を生んだかも知らないくせに!」


「犠牲にしたのは“理想”じゃない、諦めた人たちだよ!」


紫乃の目が燃えるように光る。


「私は、諦めない。かおちゃんが壊れても、こうちゃんが何をしても――私が立ってる限り、信じ続ける!」


「……ほんと、あんたって子は」


黒沢が息を詰め、かすかに笑った。


「痛いほど眩しくて、見ていられないわ」


紫乃は静かに微笑む。


「それでも、見てて。かおちゃん。――私たちが、まだ終わってないってことを」


黒沢の笑みが、ゆっくりと消えていった。

風が止まり、焦げた大地の上で灰が舞う。

彼女は視線を逸らし、唇を噛みしめる。


「……終わってない、ね」


その声はかすかに震えていた。

紫乃は黙って見つめる。

黒沢の肩が、ほんの少しだけ揺れる。


「私ね、もう誰かを信じるのが怖いの」


黒沢は自嘲するように笑った。


「信じた瞬間、その人が壊れていくのを何度も見た。天堂も……あの子も。だからもう、誰かの“正義”なんて信じないって決めたの」


紫乃は一歩、近づいた。


「でも、かおちゃん。信じないままで、誰かを救えた?」


黒沢は答えなかった。

ただ、拳をぎゅっと握りしめる。

血が滲んで、滴が地面を濡らした。


「……救えなかったわ」


小さな声だった。

風に消えてしまいそうな、痛みの滲んだ声。


紫乃の瞳が潤む。


「だったら、もう一度信じようよ。壊れるのが怖くても、誰かを守りたいって思えるなら……その気持ちが、きっと本当だから」


黒沢は顔を上げた。

紫乃の目を見た瞬間、心の奥に閉じ込めた感情が揺れる。

怒り、憎しみ、喪失、後悔――そのすべてを照らすように、紫乃の瞳がまっすぐに光を返していた。


「……あんたって、ほんと馬鹿ね」


黒沢はかすかに笑った。

今度の笑みには、ほんのわずかに温度があった。


「でも……その馬鹿さ、少しだけ羨ましい」


紫乃は目を細めた。


「なら、まだ間に合うよ。かおちゃんが本当に守りたいもの、今からでも」


黒沢は小さく息を吐いた。

その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、炎が戻る。


「……やめてよ。そんな顔されたら、また動きたくなるじゃない」


灰の空を仰ぐ。

その横顔には、涙とも光ともつかぬ輝きがあった。


「如月のこと、少しだけ見直してやる。でも、私は私のやり方で行く」


紫乃は頷いた。


「うん、それでいい。――私たちは、同じ場所を見てるだけで十分」


二人の間を、柔らかな風が通り抜けた。

戦場に残ったのは、焦げた匂いと、ほんのわずかな温もり。


その瞬間だけ、

黒沢薫の心は、確かに“揺らいでいた”。


静かな時間が流れていた。

風の音も、遠くの雷鳴も、もう何も聞こえない。


黒沢はゆっくりと立ち上がる。

まだ傷は深い。だが、その瞳にはもう“戦意”ではなく、

小さな“覚悟”が灯っていた。


「……行きなさい、紫乃」


その言葉に、紫乃が目を瞬かせる。


「かおちゃん……?」


黒沢は焦げた地面を見つめたまま、かすかに笑った。


「如月のところへ行くんでしょ。あんたの足で、あんたの信じる人のもとへ。――それが、あんたの“答え”なんでしょ?」


紫乃の胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

何かを言おうとしたが、声が出なかった。


黒沢は少しだけ顔を上げ、紫乃を見た。

その瞳には、もうあの冷たい光はなかった。


「勘違いしないで。あたしは、如月を許したわけじゃない」


「……うん」


「でも――」


黒沢は言葉を切り、唇を噛みしめた。


「それでも、あの子を“信じる”って言ったあんたを……止める資格、もうあたしにはない」


紫乃の目が潤む。

彼女は一歩踏み出して、黒沢の前で立ち止まった。


「ありがとう、かおちゃん」


「礼なんていらないわ」


黒沢は小さく肩をすくめる。


「どうせ、あんたがいなくなったら、この場の後始末は全部あたしの仕事よ」


冗談めかしたその言葉に、紫乃は微笑んだ。


「……かおちゃんがいるなら、安心だね」


「バカ言わないで」


黒沢は顔を背ける。

だが、その頬にかすかに残る血の跡を、涙が静かに伝った。


「行きなさい、紫乃。あんたが見たい“未来”が、本当にあるなら」


紫乃は深く頷く。

そして一度だけ振り返り、真っすぐに黒沢を見つめた。


「かおちゃん。私、必ず連れて帰るね――こうちゃんも、全部」


黒沢は一瞬、何かを言いかけて、やめた。

その代わりに、右手を軽く掲げた。


風が吹く。

焦げた灰の中、紫乃の髪が揺れ、

その背中がゆっくりと光の方へと駆け出していく。


黒沢はその背を見送った。

まるで、自分の中に残った“信じる心”を託すように。


「……行ってらっしゃい、紫乃」


その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

だが、確かに優しかった。


灰の空が、少しだけ晴れた気がした。

黒沢は深く息を吐き、崩れかけた地面に腰を下ろす。


「まったく……あの子は、昔から馬鹿ね」


それでも、その口元には――

久しぶりに、人間らしい笑みが浮かんでいた。


そしてそのとき、

ふと、肩越しに柔らかな風が撫でていった。


焦げた空気の中に、一瞬だけ、懐かしい声が混じる。


――『やっと、笑ったな』


黒沢の指先がぴくりと動いた。

振り返っても、そこには誰もいない。


けれど確かに感じた。

あの優しい声の主――天堂が、どこかで見ている。


黒沢は小さく笑い、空を仰いだ。


「……見てたなら、笑えばいいじゃない。ほんと、勝手なんだから」


灰の空は、ほんの一瞬だけ光を返した。

それは、天堂の笑みの残滓のようにも見えた。


黒沢は目を閉じる。

静かな風が頬を撫で、その胸の奥に、ようやく“温もり”が戻っていった。


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