第15話 幽霊屋敷――ホーンテッドマンション(1)

 異様。

 その屋敷を取り巻く風は逆巻き乱れ、周囲の木々は異常なまでにねじ曲がる。

 拓けているはずなのに、どこか薄暗い。鳥の声も、虫の音も、先ほどまで賑やかだった森の生命の気配が、まるで綺麗さっぱり消え失せていた。ただ、ひんやりとした湿った空気が肌にまとわりつき、奇妙な静寂が二人を包み込んでいる。


(なんだ……この空気……。重い……息が詰まるようだ……)


 健太は、胸のあたりに圧迫感を感じ、思わず息を呑んだ。

 それは、単なる物理的な重さではない。

 不快で、そしてどこか悲しげな気配。


「アスタロト、ここ……何か変じゃないか? 」


 健太が不安げに隣のアスタロトに声をかけると、彼女は珍しく真剣な表情で周囲を見回していた。

 

「フン。確かにな。瘴気とも違う……もっと質の悪い、澱んだ『気』が満ちておる。これは……強い『欲望』の残り香か? あるいは……それとも、もっと別の……」


 アスタロトは、何かを分析するように眉根を寄せている。彼女の魔王としての感覚は、健太には感知できない。

 彼女が「欲望」と呼ぶもの――より深淵な何かを捉えているのかもしれない。

 噂に違わぬ、かつての栄華を偲ばせる壮麗な造りの屋敷。

 石造りの壁には精巧な彫刻が施され、屋根の傾斜も計算され尽くした美しさだ。

 だが、今はその全てが静かに朽ち果て、時間の重みに押し潰されそうに佇んでいる。

 錆びて歪んだ鉄門は辛うじて片側が開いており、敷地内へと続く石畳の道は、背の高い雑草に覆われていた。窓ガラスはほとんどが割れ落ち、建物の黒い穴ぼこが、まるで虚ろな瞳のようにこちらを見つめている。かつては美しかったであろう庭園は見る影もなく荒れ果てている。


「……ここが、我々の新しいねぐらになるかもしれない場所、か」


 アスタロトが、どこか値踏みするような、しかし期待と不安が入り混じったような複雑な表情で呟いた。彼女の言う「手頃な大きさ」の城には遠く及ばないが、それでも、その荒廃した姿の奥に、かつての壮麗さと気品が感じられる。

 とても安らげる場所ではないが。


「それにしても……ひどい有様だな。これでは、とても住めそうにないぞ。まずは大掃除から始めねばならんのか?」

「いや、アスタロト……掃除とか、そういう問題じゃないと思うぞ……」


 健太は、屋敷から発せられるただならぬ気配にゴクリと喉を鳴らした。

 これは単なる老朽化による荒廃ではない。

 もっと深い、根源的な「何か」の気配がある。

 不気味で、危険な気配。

 それと同時に、どうしようもなく、胸が締め付けられるような、深い悲しみと絶望の感情が、波のように押し寄せてくる。


「アスタロト……この屋敷……ただ不気味で危険なだけじゃない……なんだか……ひどく、悲しい気配がするんだ……。まるで、誰かがずっと泣き続けているような……」


 健太が、自分の感じたままを口にすると、アスタロトは彼に視線を戻し、わずかに首を傾げた。彼女は、健太とは全く異なるものを感じ取っているようだ。


「悲しい? フン。下等な人間の感傷よな。我が感じるのは、それとは違うぞ」


 アスタロトは、まるで鼻につく悪臭でも嗅いだかのように、微かに眉をひそめた。


「これは悲しみなどではない。ただ、不快で、そして質の悪い『欲望の澱(おり)』が、この場所に長年溜まりに溜まって、腐敗しているだけだ。それも、一つではない……複数の、歪んだ欲望が複雑に絡み合っておる。実に、実に不味そうな匂いだ」


 二人の感じ方は、完全に異なっていた。

 

「どちらにせよ、ここが我の新たなねぐらとなるのだ」


 アスタロトは、不快そうにしながらも、どこか楽し気な足取りで崩れた鉄門へ向き直る。

 

 「気に入らぬものは全て排除し、我好みに作り変えれば良いだけの話よ。さあ、入るぞ、健太。ぐずぐずするでない」

「え、ちょ、ちょっと待てよ、アスタロト! いくらなんでも不用意すぎるだろ! 中に何がいるか分からないんだぞ!」


 健太は慌ててアスタロトを止めようとするが、魔王様は聞く耳を持たない。


###


 開いたままの鉄門を通り、二人は敷地内へと足を進める。石畳の道を踏みしめる度に、乾いた土埃がカサリと舞った。屋敷に近づくにつれて、空気の重さが増していくのを肌で感じる。全身に、何か抗いがたい、しかし明確な敵意とは違う、粘りつくような、そしてどこか物悲しい気配が纏わりつく。

 そして、屋敷の正面玄関、重厚な木製の扉の前に立った、その時。


 扉が、ギィィィ……と、まるで誰かが内側からゆっくりと押し開けるかのような、不気味な音を立てて僅かに開いた。

 同時に、その開いた扉の隙間から、ふわり、と白い何かが現れる。


「モンスター?!」

「いや、違うぞ健太」


 それは、淡く光る、半透明な少女の姿だった。

 古い時代の、汚れが目立つワンピースのような簡素な服を着ている。表情は、悲しみと困惑で歪んでいるのか、あるいは元々そういう顔立ちなのか、判然としないほど曖昧だ。

 しかし、その存在全体から、ひどく悲しげで、そして何かを訴えかけるような切実な気配が漂っていた。

 彼女は、音もなく宙をゆっくりと漂い、健太とアスタロトの前に浮かぶ。


(ゆ、幽霊……?まさか、本当にいたのか?)


 健太の心臓が、恐怖でドクンと大きく跳ね上がる。

 噂は本当だったのだ。

 半ば信じてはいなかった。噂に尾ひれがついて大げさになったものだと考えていたのだ。まさかそのまま実在するとは。

 しかし、不思議と、彼女の姿からは、あの森で遭遇した魔物や、あるいは目の前の魔王アスタロトが放つような、明確な悪意や攻撃性は感じられない。

 ただ、何か感情が伝わってくる。

 そこにいるだけで胸が締め付けられるような、深い哀しみと、そして……何かを伝えようとする必死な想い。


「…………」


 その少女の幽霊が、か細く、しかし確かに、言葉を発した。

 その声は、まるで風が囁くように、あるいは遠い記憶の残響のように、二人の鼓膜を震わせた。


「…………カエッテ…………カエッテ…………」


 力のない、弱々しい声だった。

 怨嗟や呪詛の響きではない。むしろ、懇願するような、どこか悲痛な響き。

 噂で聞いたのと、雰囲気というか、ニュアンスが違う気がした。

 それは、恐ろしい幽霊の威嚇の叫びというよりは、迷子の子供が助けを求めるかのような、あるいは大切な何かを護ろうとするかのような、哀しい響きだ。


「……ほう。これが噂の幽霊か。思っていたよりも随分と……儚いな。怨霊とは強い欲望――執着によってこの世に留まるものだが、これからはそういったものを感じない。むしろ……」


 アスタロトは少女の幽霊を微塵も恐れることなく、品定めでもするかのように観察していた。魔王たる彼女にとって、この程度の幽霊など、取るに足らない精霊の一種に過ぎないのだろう。

 彼女の関心は、少女の存在そのものよりも、なぜ彼女が「カエッテ」と繰り返すのか、その動機にあるようだった。その紅い瞳には、純粋な好奇と、わずかな分析の色が宿っている。


「苦しんでいるようにも見えないか?」


 健太の感じ方は異なる。

 目の前の少女の幽霊に、恐怖を感じなかったわけではない。だが、それ以上に、彼女から発せられる圧倒的な哀しみと、その必死な声に、心を強く掴まれた。

 彼女は、なぜ自分たちを追い返そうとするのだろうか?

 この屋敷で、一体何が起こったというのだろうか?

 彼女は、誰かに助けを求められないほど、深い絶望の中にいるのだろうか?


「なあ、アスタロト……。こいつ、本当に俺たちを襲うつもりなのかな……? なんか、すごく……苦しそうに見えるんだけど……」

 健太は、アスタロトに小声で尋ねる。

「フン。我には、ただ不快な欲望の残り香を纏った、哀れな魂の残滓にしか見えぬがな」

 アスタロトは鼻を鳴らす。

 

「だが……確かに、あの冒険者どもが言うような、凶暴な悪霊というわけでもなさそうだな。むしろ、何かから我らを遠ざけようとしている、という方が近いか……。面白い。実に、面白いではないか、健太よ」


 アスタロトの瞳が、好奇心でキラリと光る。

 少女の幽霊は、健太とアスタロトが立ち去らないのを見て、さらに「カエッテ…カエッテ…」と、そのか細い声を震わせながら繰り返す。その姿は、先ほどよりも少しだけ焦燥の色を帯びたように見えた。まるで、この先に進めば、取り返しのつかない何かが起こるとでも言うかのように。

 だが、次の瞬間。

 幽霊は何かに驚くように、恐れるように振り返ると、そのまま煙のように消えてしまった。


「何か、俺たちに伝えようとしてたんじゃないか?」

「ほう、面白い感じ方をするな」

「いや、面白いとかそういうんじゃなくて」


 幽霊の、悲しい警告。

 健太とアスタロトは、朽ち果てた屋敷の玄関に立ち、その先に広がるであろう闇と、そこに潜むであろう謎を見据えていた。

 好奇心と、わずかな不安、そしてこの屋敷に秘められた悲劇への予感が、二人の心の中で複雑に混じり合う。


「……行くぞ、健太。この我の新たなねぐらが、どのような曰く付きの物件なのか、とくと拝見してやろうではないか」


 アスタロトは、不敵な笑みを浮かべ、ためらうことなく屋敷の中へと足を踏み入れた。


「ちょ、アスタロト! だから、不用意だって……! もう……!」


 健太は、慌ててその後を追う。

 幽霊屋敷の、重く冷たい扉の向こう側へと。

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