第12話 腹と好奇心を満たす――ベッド・アンド・ミール

 路銀を手に入れた健太とアスタロトは、まず腹ごしらえをすべく、街で一番賑わっていそうな大きな食堂兼酒場へと足を運んだ。

 昼間だというのに、店内は多くの人々――冒険者風の屈強な男たち、商人らしき身なりの良い男、旅人風の家族連れ、そして街の住民らしき人々――でごった返しており、活気に満ち溢れている。

 食べ物の焼ける香ばしい匂いと、人々の話し声、食器のぶつかる音、酒の匂いが混じり合い、健太にとっては久しぶりの「人間の世界の喧騒」だった。


(すごいな……こんなに人がいる場所に来たの、いつ以来だろうな……)


 ブラック企業時代はオフィスと安アパートの往復、異世界に来てからは森の中とアルバスたちのキャンプ地、そしてあの薄暗い洞窟。まともな「街」の活気に触れるのは、本当に久しぶりだった。少しだけ、心が浮き立つような感覚を覚える。

 一方、アスタロトは、その喧騒と雑多な人間の匂いが気に食わないのか、わずかに眉をひそめ、美しい鼻に軽くしわを寄せている。

「フン……安い欲望だらけで胸やけがする」

 しかし、腹が減っているのは確かなようで、健太に促されるまま、空いていたテーブル席へと向かった。


 席に着き、とりあえず腹を満たせそうな肉料理とパン、そしてエールを注文する。

 アスタロトは「我はもっと上等なものが食べたいのだがな。例えば、そうじゃな、ドラゴンの丸焼きとか……」などと不穏なことを呟いていたが、健太は聞こえないふりをして、手早く注文を済ませた。

 

(ドラゴンって……本気で言ってんのか……? いや、魔王様だから本気だよな……。でも、そんなもん、どこで食えるんだよ……)


 料理が運ばれてくる。

 焼きたてのパン、香ばしい肉の塊、そしてジョッキになみなみと注がれたエール。決して高級な料理ではないが、空腹の健太にとっては、まさに天国の饗宴だった。

 アスタロトも、最初は不満げな顔をしていたものの、一口肉を口に運ぶと、意外にも「ふむ、悪くない」と呟き、それからは黙々と食事を進めていた。よほど腹が減っていたのだろう。


「しかし健太よ」


 肉料理の骨を器用にフォークでつつきながら、アスタロトが不意に口を開いた。


「お主のあの【素材無限生成オブジェクト・アンリミテッド・テイカー】とかいうスキル、実に興味深いな。あの金貨のように『価値あるもの』は複製できぬようだが、それ以外の『素材』とやらなら、いくらでも生み出せるのであろう?」

「え、ああ、まあ……今のところは、だけどな。まだ完全に使いこなせているわけじゃないし……」

 健太は、食事の手を止め、少し戸惑いながら答える。彼女の関心がどこにあるのか、まだ掴みきれない。

 

(いきなりスキルの話か……。この魔王様、本当にマイペースだよな……)


「ふむ。ならば、食料なども生み出せるのではないか? 我は先ほどドラゴンの丸焼きが食したいと言ったが、お主の力で、それを『生成』することはできぬのか? あるいは、もっと手軽なものでも良いぞ。あの小鳥――インコとか言ったか? あれを捕まえて、お主が美味い肉料理に『複製』してくれれば、我は大いに満足するのだが」


 アスタロトは、真顔でとんでもないことを言い出す。ドラゴンの生成は論外だとしても、生きたインコを捕まえて、それを「複製」して食料にするなど、倫理的にも、そしておそらくはスキルの仕様的にも無理だろう。


(いきなりハードルが高いな、この魔王様は……! それに、有機物の複製は『味』のプロパティとか色々複雑だったし、そもそも生き物を直接複製できるかどうかも……。前に試した時はエラー出たよな……確か……)


 健太の脳内に、過去の試行錯誤の記憶と、ぼんやりとしたシステム警告のようなものが同時に浮かび上がる。


「えっと……アスタロト。残念ながら、生き物そのものを直接『複製』したり、複雑な料理をいきなり『生成』したりするのは、今の俺のスキルじゃ難しいんだよ。素材の『構造』と『性質プロパティ』を正確に理解して、それを再構築ビルドアップするようなイメージだからさ……。例えば、肉の塊なら生成できるかもしれないけど、それをドラゴンの味にする、っていうのは……ちょっと、今はまだ厳しいかな」

「つまらんな。では、あの金貨のような『爆発』するものはどうだ? あれはもっと派手にできぬのか? 例えば、そうじゃな、この食堂くらいなら一瞬で吹き飛ばせるような、強力な爆弾とかは……」


 突拍子もない。

 食べ物の話をしていたのに、飛躍も甚だしい。


「それはもっとダメだって! 絶対にダメだよ、そんなの! そんなことしたら、俺たちが真っ先に捕まるだろ!」


 健太は、アスタロトの危険な発想に、慌ててパンを喉に詰まらせそうになりながら叫んだ。この魔王様は、本当に力の使い方が物騒すぎる。


「ちぇっ。ケチなヤツよのう」


 アスタロトは、心底つまらなそうに鼻を鳴らし、再び目の前の肉料理に集中し始めた。

 その横顔を見ながら、健太は一抹の不安覚えるのだった。


 ###


 食事を終え、人心地つく。

 二人は、早速宿探しを開始した。

 アスタロトは、見るからに豪華な、貴族が泊まるような高級宿を見つけるたびに「健太! あそこが良い! きっと天蓋付きのベッドがあるぞ!」と主張したが、健太は「予算オーバーだよ!」「『投資』のためなんだから!」と、その都度なだめすかし、結局、街の片隅にある、一階が酒場になっているような、かなり年季の入った安宿に落ち着くことになった。

 外観は粗末で、お世辞にも清潔とは言えない。しかし、中に入ると、意外にも多くの人々で賑わっており、活気だけはあった。


 ###


 安宿の扉をくぐり、一階の酒場スペースへと足を踏み入れた瞬間、それまで響いていた賑やかな話し声が、僅かに、しかし確かに遠のいた。

 宿の客たちの視線が、一斉に健太とアスタロトに集まる。


(うわ……なんか、すごく見られてるな……)


 無理もないだろう、と健太は思った。

 片や、異世界の冒険者たちに比べれば明らかに細身で、アルバスたちによる虐待の日々でどこか陰りを帯びた、みすぼらしい身なりの青年。

 片や、その容姿がこの世のものとは思えぬほどに美しく、アスタロトが今着ている簡素な(しかし健太には高価そうに見える)旅装束すら、まるで高貴なドレスのように見せてしまう、圧倒的な存在感を放つ美女。

 あまりに不釣り合いで、奇妙な二人組。好奇の視線が集まるのは当然だった。

 

 健太が宿の女主人に声をかけ、今夜泊まる部屋の確認をしている間に、早くも事件は起こった。

 何人かの男――酒に酔ったような、粗野でガラの悪そうな冒険者たちが、アスタロトの周りに人だかりを作り始めていたのだ。


「よお、嬢ちゃん、一人か? こんな薄汚ねえ宿で何してるんだ?」

「俺たちと一杯どうだ? もっといい酒と美味い料理をご馳走するぜ!」

「隣のひょろいヤツは、お前さんには似合わねえなあ! 俺様たちの方が、よっぽど男らしくて頼りになるぜ! がっはっは!」


 下卑た笑い声と共に、口々にアスタロトを口説き、健太を引き合いに出して自分を誇示する。その声は、かつて【銀翼の鷹】の連中や、ブラック企業の上司が、健太を嘲り、見下す時に発した声によく似ていた。

 健太の背筋がぞくりと冷える。

 体が微かに強張り、呼吸が浅くなるのを感じた。


(またか……こういう奴らは、どこにでもいるんだな……)


 トラウマが刺激されそうになるのを、健太は必死で堪える。

 あとは、アスタロトが心配だった。

 人間の姿をしているから忘れがちだが、あれでも魔王だ。

 まさかあの無礼な男たちの首でもはねないかとドキドキする。

 そんな健太の心配をよそに、男たちに囲まれたアスタロトは、まったく動じる様子もない。

 怒るでもなく、むしろ、つまらなそうに彼らを見ていた。

 やがて、彼女の血のように紅い瞳が、妖しく、そして深く、内側から光を宿し始めた。

 それは、見た者の心の奥底にある「欲望」を見透かす、魔王の権能の一端。

 男たちの下卑た言葉の裏側にある、ドス黒く歪んだ性欲や支配欲が、アスタロトの目には、まるで色や形を持ったエネルギーのように見えているのだった。

 紅い瞳が。

 人間のうちで揺らめく欲望をとらえる。

 アスタロトは、ふ、と微かな、しかし侮蔑を隠さない笑みを浮かべると、その瞳の光をさらに強めた。

 瞬間、男たちの集団に向け、彼女の纏う空気が一変する。

 物理的な圧力ではない。

 しかし確実に、アスタロトは男たちから何かを奪った。

 アスタロトがまるで腐ったものでも口にしたかのように、眉根を寄せ、心底不快そうに呟いた。


「……まずいな。これは、実に、まずい欲望だ」


 彼女が、魔王のスキルで男たちの「欲望」を吸い取ったのだ。

 彼らの抱く低俗で歪んだ性欲は、彼女の洗練された魔王の舌には、ひどく不味い代物だったらしい。

 欲望を根こそぎ吸い取られた男たちは、顔から血の気が引き、まるで魂を抜かれた人形のように動きを止めた。

 そして次の瞬間、我に返ったかのように顔を見合わる。

 きょっとん、と。

 まるで深い夢から覚めたように。

 そして理由も分からぬまま、そそくさとアスタロトから遠ざかり、それぞれの席へと戻っていった。先ほどの熱情的な態度は、嘘のように消え失せていた。

 健太が宿の女主人との話を終え、振り返ると、ちょうどアスタロトの周りから男たちが奇妙な様子で散っていくところだった。何が起きたのか正確には分からなかったが、彼女が無事なことに、そして何事もなかったかのように平然としているその様に、健太は内心で安堵した。


「部屋をとれたよ。用意してくれるらしいから、すこし待っていよう」

「ほう、人間の寝床というのは懐かしい。楽しみだ」


 二人はテーブルに腰かけて一息つく。

 すぐ隣のテーブルから、冒険者たちの話し声が耳に飛び込んできた。

 どうやら、最近この辺りで噂になっている「曰く付きの物件」についての話らしい。


「…ったく、だから言っただろ? あの山奥の屋敷はやめとけって。あそこはヤバいんだよ」

「ああ、見た目は立派な屋敷らしいがな。何でも、夜な夜な女のすすり泣く声が聞こえるとか…」

「それだけじゃねえ。中に入ろうとした奴らは、みんな恐ろしい形相の幽霊に『カエレ…カエレ…』って追い返されるんだとよ」

「でもよぉ、中にはとんでもない財宝が眠ってるって噂もあるじゃねえか? 一攫千金のチャンスかもしれねえぞ?」

「馬鹿言え。財宝目当てで行って、無事に帰ってきた奴なんていやしねえよ。腕に覚えのある奴らでも、みんな行方知れずだ。幽霊に食われたって噂だぜ」

「つーか、あの屋敷、そもそも持ち主は誰なんだ? 昔は貴族の別荘だったって話だが…」

「さあな。今は誰も住んでねえ、ただの幽霊屋敷だ。近づかない方が身のためだぜ、マジで」


 その言葉の断片が、健太の耳に妙に引っかかった。

アスタロトを見ると彼女もまた冒険者たちの会話に耳をそばだてていたようだ。その紅い瞳が、微かに興味の色を宿して輝いている。


(立派な屋敷……財宝……。それに、幽霊……か)


 健太の心にも、好奇心と、そして微かな危険への警戒心が芽生える。

 アスタロトの瞳には、「立派な屋敷」「財宝」という言葉への強い興味と、「幽霊」などという下等な存在への侮りが浮かんでいた。

 二人は無言で頷き合い、隣のテーブルで噂話をしていた冒険者たちの方へ向き直った。

 健太が、意を決して声をかける。

「あの……すみません。今の話、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」

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