俺は世界をhackする―転生プログラマーの異世界冒険記―

ぺたへるつ

第一章「社畜転生編」

第0話 ある社畜の死――ブラックアウト

(異世界転生とかしたいなあ……)


 佐藤健太は雑に思った。


(それで、チートスキルで平穏に暮らすんだ)


 でもそんな現実逃避を許してくれるほど、現実は優しくない。

 くすんだ蛍光灯の光が、深夜のオフィスを無機質に照らしていた。

 光と闇の区別が曖昧だ。灯りの中に、細かい影の粒子が漂っている。

 時刻はすでに午前3時を回っていた。

 健太は目を擦り目頭を押さえる。乾ききった瞳と慢性的な頭痛からくるめまいで、目の前のモニターがいやに眩しい。画面に表示されたコードも輪郭が曖昧にぼやけて虹色に滲んでいる。肩は痛いほどに凝り固まり、腰はひびが入ったように軋み続ける。鼻の奥には埃っぽくも甘い臭いがこべりつき、口の中にはもう何本飲んだか忘れたエナジードリンクのケミカルな甘味がいつまでも残っている。まともな食事なんてしばらく摂っていない。

 

(……あとは、ここをデバッグして……そうだ、明日クライアントに提出するプレゼン資料を最終確認して……)


 思考は泥のように重い。1歩考えを進めるたびに、ジュースをこぼした床を歩くようなベタついた不快感を覚える。3歩進めばついさっきまで考えていたコードのロジックが霞んでいく。

 徹夜はもう3日連続だ。

 最後に布団で寝たのはいつだったか……いや、家に帰ったのは何日前だっただろう。もう健太には思い出せなかった。隣のデスクやその向こうにも、健太と同じようにモニターの光を浴びてもうろうと作業を続ける同僚たちの姿があった。

 皆、限界を超えている。

 まるでロボット、いやゾンビだろうか。


(なんだこれ……俺たちは何をしているんだ?)


 健太はプログラマーとして叔父が作った会社で働いている。零細ではないが中小というには小規模な会社だ。そもそも、はじめから楽な仕事ではなかった。矛盾した仕様、非現実的な納期、納品直前のちゃぶ台返し的な仕様変更に人月を理解していないプロジェクトへのアサイン……プログラミングは論理的な仕事であるはずなのに、なにもかもが非論理的で不誠実で理不尽だった。それでも路頭に迷っていた自分を拾ってくれた恩に報いるためと、健太は必死に働いてきた。今が忙しいだけ。このデスマーチを抜ければ、一息つける。俺が頑張って業績を上げれば、労働環境もよくなる……。

 だが、状況は悪化する一方だった。

 社長からの重圧は日に日に増していく。今日だって、日が落ちてから新しいタスクを振ってきた。納期は明日。たった数時間で何十項目ものバグフィックスをやれという。無茶苦茶だった。そもそも、すでに会議の準備をしろ、営業資料の作成をしろ、クレーム対応をしろ……山ほど仕事が積まれている。しかし、それが不可能だとわかっていても「できません」とは言えない空気だった。もし失敗すれば、すべての責任は自分が負うことになるだろう。

 どれだけの叱責と罵倒があるか。

 殴られるかもしれない、蹴られるかもしれない……そんな恐怖が、健太の肉体と精神を無理やりつなぎとめていた。


(あと、6時間……)


 社長が出社してくるのは午前10時。それまでにタスクを完了しておかなければならない。


(ああ、できるわけがない!もうどうしろっていうんだよ!)


 ズキン、と鈍い痛みがこめかみを走る。同時に、手元に置いた電話が鳴る。メールだ。画面には健太が担当しているサービスの保守担当ベンダの名前。件名には【緊急】【最優先】の文字。本文を開くと、現場で対応できないエラーが発生しているらしかった。添付された大量のエラーログを前に健太は頭を抱える。


(このタイミングでエスカレーション?冗談だろ!無視だ無視!)


 今度は電話の着信音が響いた。社長だ。

 こんな状況で声を聞きたくない。でも、3コール以内に出ないと何を言われるか、何をされるかわかったもんじゃない。健太は憂鬱な気持ちで受話ボタンを押す。


『このクズが!今何時だと思ってやがる!』 


 まず罵倒があった。

 そして、更に罵倒が続く。


『エラーが出ているぞ!貴様、自分の責任がわかっているのか。仕事をしろ!クライアントからクレームがきたら貴様のせいだぞ!朝までに対応しろ!この無能が!お前の叔父が作った会社なんだ。首つって逃げたあいつの代わりに責任をとるのがお前の仕事だろ!おい、わかってるな?サボるんじゃないぞ!!』


 健太の中で何かが切れる音がした。

 それは、ぎりぎりまで彼の精神を肉体に繋ぎ留めていた糸が切れる音だった。

 猛烈な吐き気と眩暈が同時に襲い掛かる。首が、手足が、急速に冷えていく。視界が万華鏡のようにぐにゃりと歪み、モニターの光が強烈な閃光となって目に焼き付く。

 白い。

 なにも、見えない。

 指先から力が抜け、キーボードの上から滑り落ちる。

 

(ああ、無理だ……)


 健太は自分の思考が急速に遠のいていくのを感じていた。

 電話の向こうでは、社長がまだ何か怒鳴っている。

 でも、聞こえない。

 なにも、わからない。

 倒れ込む体が、デスクに鈍い音を手ててぶつかる……でも、痛みはなった。

 

(疲れた……本当に……休みたい……もっと、静かに、暮らしたい……おじさん、ごめん)


 そして、

 

(……少しだけ、寝よう)


 それが、佐藤健太という一人のサラリーマンが遺した最後の意識だった。

 彼がこの世界で目覚めることは二度となかった。

 光が消えた。

 音が消えた。

 世界のすべてが暗闇に包まれた。


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