異世界ディストラクション
殺島魁
プロローグ
ぽた、ぽた、赤い雫が写真に点を穿つ。
染みる痛みが、こんなにも鋭いものだとは思わなかった。手首の傷口がみじめな自分をあざ笑うように開いている。それにどれだけ腹を立てて、その口を塞いでやろうと思っても、きっともう閉じることは無い。
がくん、とうなだれる。目尻から零れる涙は悲しいからなのか、苦痛に対する体の反射なのか。あたまがぼやっとして、それすらもわからない。
いつも制服のポケットにしまっていた大事なナイフが、掌から机に落ちる音がした。
俺は、死ぬ。両親はどうおもうだろう。
かすむ視界の中で、写真の三人家族は笑っていた。楽しかったころ。穢れも、屈辱も、己の無力も、何も知らなかったころ。
幼気な少年のぎこちない笑顔が、彼の滲む液体に濡れてゆく。
それで、終わった。
◆
次に目が覚めた時、俺はやすらぎの中にいた。
あたたかくて、ほのかにあまい匂いがする。直角に傾いた景色はのどかな草原で、やさしい陽光が風景を照らしている。頭をあずける枕は少しだけ固くて、それは今まで経験したことのない感触だった。
これは、なんだ。つかの間の逡巡を、ちいさな声が打ち消す。
「あ、起きた…」
俺はその声を、見上げた。
それは少女の顔だった。まるくおおきな瞳。やさしい光を吸い込む亜麻色の髪。
木漏れ日が注ぐ中で微笑んだ彼女は、ありえないほどに、かわいかった。
総身が硬直する。俺は、美少女の太腿、その膝枕で寝ていたのだ。
「急に意識を失ってしまうんですから、びっくりしましたよ」
でも目が覚めてよかったです。と、少女は微笑んだ。息が止まりそうになる。
こんがらがった頭を高速回転させて、言葉を探す。
「すみません」
俺は謝った。というか、誤ったのかもしれない。
それでも少女は笑っていた。その反応はあまりにも予想外で、俺の言葉が聞こえたのかどうかも怪しかった。
「私もゆっくりしたいのですが、お兄様が心配しているかもしれません。王都へはもう少しですから、先を急ぎましょう。立てますか?」
「はい」
俺は即答して、この世ならざる安息領域から離脱した。
彼女の発した言葉の意味もわからないまま、とりあえず身を起こしてみると、自分の変化がよくわかった。
鎧を着ている。腰に剣を挿している。前髪も、短くなっている。
──前髪が短くなっているということは、他人へ嫌悪感を齎す俺の顔が露わになっているということだ。
慌てて頭を振り、髪を下ろそうとするが、切り揃えられた短髪はどうしようもなくさらさらで、そよ風のように指の間をすり抜けるばかりだった。
そんな様子を見て、少女がくすりと笑った。
嘲笑。受けすぎて感覚の麻痺していた筈のその羞恥の痛みが、なぜかことさら強く湧き上がってくる。
そうだ、俺は、そういう人間だ。
この子も、皆と同じなんだ。
だから俺は…。
「かわいい」
彼女は言った。
「子犬のようですね」
立ち上がった彼女は俺の目の前ですこし背伸びをして、しなやかな指で俺の髪に触れた。ぐしゃぐしゃの前髪が、ゆっくりと整えられる。
「ほら、これで大丈夫ですよ。いつもどおり、カッコいい貴方です」
そう言って微笑む。
心がボコボコのサンドバッグにされる音がした。
「夢?」
「夢を見ていたんですか?」
彼女の綺麗な輪郭が傾げる。そのゆるりとした長髪がふわっと揺れて、俺は気を取り直す。
「あ、いや──」
俺は死んだ。あの時確かに、自らの手で、命を絶った。
そのはずだった。
それから俺は、穏やかな草原を彼女と歩き、理解した。
ここは、異世界だ。
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