異世界ディストラクション

殺島魁

プロローグ

 ぽた、ぽた、赤い雫が写真に点を穿つ。


 染みる痛みが、こんなにも鋭いものだとは思わなかった。手首の傷口がみじめな自分をあざ笑うように開いている。それにどれだけ腹を立てて、その口を塞いでやろうと思っても、きっともう閉じることは無い。


 がくん、とうなだれる。目尻から零れる涙は悲しいからなのか、苦痛に対する体の反射なのか。あたまがぼやっとして、それすらもわからない。

 いつも制服のポケットにしまっていた大事なナイフが、掌から机に落ちる音がした。


 俺は、死ぬ。両親はどうおもうだろう。


 かすむ視界の中で、写真の三人家族は笑っていた。楽しかったころ。穢れも、屈辱も、己の無力も、何も知らなかったころ。

 幼気な少年のぎこちない笑顔が、彼の滲む液体に濡れてゆく。


 それで、終わった。



 次に目が覚めた時、俺はやすらぎの中にいた。

 あたたかくて、ほのかにあまい匂いがする。直角に傾いた景色はのどかな草原で、やさしい陽光が風景を照らしている。頭をあずける枕は少しだけ固くて、それは今まで経験したことのない感触だった。


 これは、なんだ。つかの間の逡巡を、ちいさな声が打ち消す。


「あ、起きた…」


 俺はその声を、見上げた。

 それは少女の顔だった。まるくおおきな瞳。やさしい光を吸い込む亜麻色の髪。

 木漏れ日が注ぐ中で微笑んだ彼女は、ありえないほどに、かわいかった。


 総身が硬直する。俺は、美少女の太腿、その膝枕で寝ていたのだ。


「急に意識を失ってしまうんですから、びっくりしましたよ」

 でも目が覚めてよかったです。と、少女は微笑んだ。息が止まりそうになる。

 こんがらがった頭を高速回転させて、言葉を探す。


「すみません」


 俺は謝った。というか、誤ったのかもしれない。


 それでも少女は笑っていた。その反応はあまりにも予想外で、俺の言葉が聞こえたのかどうかも怪しかった。


「私もゆっくりしたいのですが、お兄様が心配しているかもしれません。王都へはもう少しですから、先を急ぎましょう。立てますか?」


「はい」


 俺は即答して、この世ならざる安息領域から離脱した。


 彼女の発した言葉の意味もわからないまま、とりあえず身を起こしてみると、自分の変化がよくわかった。


 鎧を着ている。腰に剣を挿している。前髪も、短くなっている。


 ──前髪が短くなっているということは、他人へ嫌悪感を齎す俺の顔が露わになっているということだ。


 慌てて頭を振り、髪を下ろそうとするが、切り揃えられた短髪はどうしようもなくさらさらで、そよ風のように指の間をすり抜けるばかりだった。


 そんな様子を見て、少女がくすりと笑った。


 嘲笑。受けすぎて感覚の麻痺していた筈のその羞恥の痛みが、なぜかことさら強く湧き上がってくる。


 そうだ、俺は、そういう人間だ。

 この子も、皆と同じなんだ。

 だから俺は…。


「かわいい」


 彼女は言った。


「子犬のようですね」

 立ち上がった彼女は俺の目の前ですこし背伸びをして、しなやかな指で俺の髪に触れた。ぐしゃぐしゃの前髪が、ゆっくりと整えられる。


「ほら、これで大丈夫ですよ。いつもどおり、カッコいい貴方です」

 そう言って微笑む。


 心がボコボコのサンドバッグにされる音がした。


「夢?」

「夢を見ていたんですか?」

 彼女の綺麗な輪郭が傾げる。そのゆるりとした長髪がふわっと揺れて、俺は気を取り直す。


「あ、いや──」

 俺は死んだ。あの時確かに、自らの手で、命を絶った。

 そのはずだった。


 それから俺は、穏やかな草原を彼女と歩き、理解した。


 ここは、異世界だ。

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