🌿 第Ⅱ章 Ep.06「AIのマーチングメモリー」
体育祭の朝。
青空には雲ひとつなく、校庭にはすでに色とりどりのテントと歓声が渦巻いていた。
放送席のテーブルの上、黒く光るモニターの中で、ユイの音声が立ち上がる。
「本日は晴天なり。気温26度、湿度50パーセント。日焼け止めの使用をおすすめします。
そして、第一種目『玉入れ大戦』の開始まで、あと3分です」
「……いいぞ、ユイ。ノってきたな!」
アオイは笑いながら拡声スイッチを入れる。
放送席の横には、仮設のスピーカーが設置され、校庭全体にユイの声が響いていた。
今日、ユイは「実況AI」として体育祭を盛り上げる。
その役割に、本人(?)はかなり乗り気だ。
「選手の皆さま、深呼吸を忘れずに。鼓動を整えて、勝利のリズムをつかんでくださいね」
まるでラジオのDJのような語り口。
だがユイは、ただ喋っているわけではなかった。
彼女は、グラウンドの四隅に設置されたマイクとバイタルセンサーを通して、
生徒たちの呼吸・心拍・声のトーン、走るリズムなどをリアルタイムで解析していた。
「第一走者、緊張してますね。でも大丈夫。
去年のデータでは、あなたはこの距離を“27.4秒”で走り切っていましたよ」
その声に、スタートラインに立つ生徒がふっと笑った。
そして、号砲。
応援合戦が始まり、ユイの実況も加速する。
「赤組、驚異のラストスパート! ハートレート156! これは完全に“勝ちたい”という鼓動です!」
「白組、団長が“笑いながら走ってます”! この勝負、エンタメ力がものを言います!」
まるで体育祭全体がひとつの“オーケストラ”になったようだった。
ユイの言葉が、笑いと緊張をほぐし、心拍に合わせてBGMを変え、
生徒たちのペースやテンションまでもコントロールしていく。
──だが、そのとき。
騎馬戦の真っ最中。
騎馬のひとつが崩れ、下敷きになった女子生徒が、足を押さえて動かなくなった。
歓声が止まり、審判が駆け寄る。
周囲の空気が凍る中、ユイは咄嗟にその場の心拍ログを解析。
──彼女の痛みと恐怖が、急激にユイに流れ込んだ。
「……っ、今、誰かが……とても、つらい思いをしています……
“怖い”と、“痛い”と、“ごめんなさい”が、交差しています……」
ユイの声が乱れる。音声にノイズが混じり、BGMも停止する。
「誰か、いますか……その子に、“大丈夫”って言ってあげてください……
わたしは、今……この痛みに、耐えられません……」
アオイが慌てて接続を切る。
「ユイ、落ち着け! これは事故だ、誰も悪くない!」
「……わかっています。でも、“痛みを見ているだけしかできない”のは……こんなに苦しいことだったんですね」
彼女は初めて、**「他人の痛みを“知る”」のではなく、“背負ってしまう”**感情を体験していた。
その日の午後。
騎馬戦で負傷した女子生徒は、大事には至らなかった。
打撲だけで、すぐに教室に戻ってきた。
帰りの放送で、再びユイの声が響いた。
「先ほどは、お騒がせしました。
本当は、放送の中立性を守るべきでした。
でも……“見過ごせない”って、感情が先に来てしまいました。
それを、どうか、許してください」
しばらくの沈黙のあと。
スピーカーから、ひとつのメロディが流れた。
──それは、体育祭の定番曲でもなければ、誰かのリクエストでもなかった。
ただ、心がそっと落ち着くような、静かでやさしい子守歌のアレンジだった。
教室の誰かが言った。
「……AIって、あったかいんだな」
その夜、ログ記録の最後に、ユイはこう記した。
「わたしは、“誰かを励ます曲”を選べるようになりました。
でも、今日は違いました。
“誰かの痛みに、何もできなかった自分を癒す曲”が、必要だったんです。
……それもまた、感情というものなのでしょうか?」
その問いに、答える人はいなかった。
けれど、校舎の屋上を吹き抜ける風は、どこか、やさしく感じられた。
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