ウェンカムイ(5)
廃れているとはいえ、この薬師寺の敷地は広い。境内の他に数多の子供たちや僧、時には客人が自由に暮らせるほどの部屋が用意され、その周りを風情ある庭が囲っている。
そんな庭の松の木の傍で、伊之助は木刀を手に独り稽古をする。子供のひとりが何処からか探し出してきたというその刃先は丸くなり、柄の部分は手垢に塗れていた。何とか綺麗にしようとできる限りの事をしたが、まったくもってその汚れが落ちることはなかった。
「ま、どのみち俺が汚すだろうから変わりないか」
力強い素振りをしつつ、伊之助はボヤく。夕方の赤々とした陽に目を細め、先程の墓守の瞳を思い出しながら、幾つか型を繰り返した。
本来は紫色の虹彩の中に黒々とした瞳孔があったはずだが、あの時は墨で塗りつぶされたかのような黒々とした虹彩の中で爛々と赤い瞳孔が輝いていた。まるで、人間を相手にしているとは思えなかった。
彼は子供たちのように墓守の異変に恐怖を抱いてはいない。だが、こうして心を落ち着けなければ対処ができないように思えたのだ。
「……よし」
汗を拭き、衣服を整えながら墓守を探しに行くと、墓石の群れに囲まれて掃き掃除をしていた。汗に濡れた白髪が朗々と輝き、瞳はこちらからは確認できない。その隙間から見える唇は絶え間なく動いていたが、見た限り彼の周りに話し相手は見受けられなかった。
「おい、墓守」
今度は遠くから大声で呼んでみると、彼はすぐさま気づいた。驚いたかのように肩を震わせたにも関わらず、伊之助を見た彼の表情は穏やかだった。
「おや、伊之助」
能天気な声に思わずイラつきを覚える。出会って日が浅くともつい先程の奇行を誤魔化しているのはお見通しだった。
「おや、じゃねぇよ。なぁどうした、お前。まさか何かに憑かれてるんじゃないだろうな?」
「憑かれている? 何の話だ」
「しらばっくれるなよ。お前さっき何か喋っていただろ」
「……そんなことは、ないが」
思わず「とぼけるなよ」と叫びそうになった伊之助だが、墓守の顔つきを見て何とか押し留めた。
墓守の瞳は混乱しているように思える。目は泳いでいないが、そこには不安の色があった。どうやら、嘘は吐いていないらしい。
「……覚えてないのか?」
「だから、何の話だと言っている。つまらないものなら聞く気がしないな」
その声は震えている。伊之助は言葉選びに迷った。
「お前が、お前じゃなくなったんだ。いつものっつってもまだ会って日は浅いけどよ。ただ、瞳の色は違っていたし、今誰もいないのに何かブツブツ言っていた」
正直に墓守に話すと、目の前の彼の瞳が揺れ動く。
「それは、本当か……?」
「ああ」
「私が、そんなことを……?」
今度は黙って肯いた。
「そうか……悪かったな」
目を伏せ、離れようとする墓守の肩を伊之助は掴んだ。これで終わりにさせるわけにはいかない。子供たちとの約束を守るためではなく、嫌な予感がしたからだ。
「ちょっと待て、原因を教えてくれよ。わかってんだろ?」
「……お前には関係のない話だ」
絞り出すような声が痛々しく感じられる。
ふと、墓守の目が伊之助の手元に向いた。そこには木刀が握られている。手垢だらけのそれを確認した途端、彼はゾクリとまた肩を震わせた。
「伊之助、貸せ」
目にも留まらぬ速さで木刀は奪われてしまった。驚いた伊之助が口を開く前に、墓守は「喋るな」と言いたげに彼に向けて首を横に振る。
「汚れが酷いだろう。私が綺麗にしておく」
そう言うと、彼は足早に去って行ってしまった。
「何だよあいつ、いきなり……」
「どうした、難しい顔しよって」
背後からの声に振り返ると、いつの間にか住職がゆらりと立っていた。
孤児たちは周りにいない。悠然としたその姿に、伊之助は何処か安堵する。
「何だ、あんたでしたか。吃驚したぁ……」
「すまんのう。陰でお主らのやり取りを見ておったなじゃ。……やはりあれはわしの勘違いではなかったのじゃのう」
「どういうことだ?」
「ウェンカムイ」
老人の発した言葉が上手く聞き取れなかった。もう一度お願いし、やっと理解できた。それほどまでにいままで耳にしたことのない不思議な響きだった。
「お主は知っておるかのう。かつてこのヒノモト全土を支配し、闇へと葬らんとした悪神じゃ」
「それは、確か神話時代の話でしょうか?」
告いで出た自身の言葉がやけに壮大な話だと伊之助は溜め息を吐く。
ヒノモトの神話や伝承は古くから複数の書物に纏められているが、長い人の世を経て眉唾物も多いと認識されつつある。それでもそこに描かれた神話の世界は親から子へ、孫へと代々語り継がれてきている。
「そうじゃ。信じておらぬようじゃな」
「信じる信じないの前に神話と墓守のアレがどう関係しているのかわからねぇので。詳しく話を聞かせて欲しいのですが」
「勿論構わぬが、場所を移そうかの。茶室を使うとするか」
住職の提案に、伊之助は神妙に頷いた。
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