36.マリアンヌ
黒き靄が漂う魔の森の最奥を後にし、私たちは光が差し始める浅い領域へと歩みを進めていた。
私とゼノンは、前方を進むニーナとセリオスの背中を追いかける。
ニーナは魔法で形成した結界の上に、足を火傷したカミラを乗せて運んでいる。
あの結界は、おそらく彼女の第三魔法だろう。
通常、第三魔法をこのように行使すれば、それだけで移動速度は落ちる。
けれど、ニーナにはそれが当てはまらない。結界を操作しながらも、彼女の動きには一切の迷いがない。むしろ魔の森という危険地帯を抜けるため、速度をさらに上げているようにさえ見えた。
第三魔法の操作と維持には、膨大な魔力を消費する。
それにもかかわらず、ニーナの足取りには疲労の色一つない。魔力が尽きるどころか――彼女自身が魔力の塊であるかのように見える。
「……すごい」
自然とつぶやきが漏れた。前を行く彼女の背中を見つめながら、ただただ圧倒される。
「何か言いました?」
隣を走っていたゼノンが、ちらりとこちらを見る。
私は首を振り、視線で否定する。
――
しばらく進むと、柵に囲まれた小さな屋敷が姿を現した。
蔦に覆われたその建物は、魔の森には不釣り合いなほど幻想的な雰囲気をまとっている。
よく目を凝らすと、柵を覆うように建物の周囲を魔力の膜が包み込んでいた。
ニーナはその膜に手を当てる。すると、魔力の膜が緩やかに反応し、人ひとり通れるほどの入り口が開かれた。
ニーナが手招きする。私とゼノンはその導きに従い、屋敷の敷地内へと足を踏み入れた。
私は内側から魔力の膜にそっと触れてみる。
……ものすごい魔力の密度。
魔力の流れを確かめるため、心眼魔法を発動すると、この魔力の膜に見覚えがあることに気づいた。
――これは、孤児院で見たもの……?
あのときは、あらゆる手段を試しても突破は不可能だった。あれほど強力な膜。
けれど今、ニーナはその魔力の膜を、まるで何でもないかのように通過してみせた。
「……信じられない」
私はただ、彼女の背中を呆然と見つめていた――驚愕を隠せないままに。
――
私はセリオスに案内され、小さな屋敷の中へと入った。
「お待ちしておりました」
中から現れたのは、薄い青髪が美しいエルフの女性。
その隣には――孤児院で見かけた、あの室長ノエルの姿もある。二人とも、紫のローブをまとっていた。
「ご紹介いたします。こちらがマリアンヌ殿下がお探しの――紫の薬師、リリアンになります」
セリオスの紹介に、私は思わず見とれる。
噂の薬師が、まるで絵画から抜け出したような麗しきエルフ――言葉を失うほどの美しさに、息を呑んだ。
ほんの一瞬、セリオスの声が耳に入らなかったほどだった。
「それでは、さっそくですがカミラ様の容態を確認いたします」
リリアンはそう言って、カミラの火傷にそっと手を添えた。
その表情は真剣そのもので、顔を近づけて傷の様子を丁寧に見つめる。
彼女は魔法で四角い空間を展開し、その空間をカミラの傷にかぶせるようにして覆った。
「事前の報告の通り、ナイトメアホースの黒炎による火傷のようですね。それでは、こちらを使用します」
リリアンは懐から薬瓶を取り出し、中身を火傷痕に垂らす。
続いて、隣のノエルが魔法を唱え始めた。その声には力強さと優しさが入り混じっている。
すると――見る見るうちにカミラの火傷は癒えていった。
傷跡が完全に消えた瞬間、ノエルが指を鳴らし、何かの魔法を解除する。
「もう大丈夫ですよ」
リリアンは優しく微笑みながら、カミラにそう告げた。
――
彼女たちがその場を離れようとした瞬間、思わず声が出た。
「ちょっと待って」
自分でも何を聞きたいのか分からないまま、私はリリアンを引き留めていた。
魔薬の犯人については得た情報から捜索を進めれば、いずれ辿り着けるかもしれない。
だが、それだけで彼女たちが今回の事件と無関係だと断じるには、どうしても割り切れないものがあった。
――あの情報は彼女たちには都合がよすぎる。
私は心眼魔法を発動する――しかし、リリアンの魔力量が高すぎて、何も読み取れない。
ちらりと視線を横に向けると、完治したカミラがニーナの時と同じように怯えた様子で、ゼノンの背に隠れているのが目に入った。
「薬師様は――」
魔法で見抜けないなら、会話から何かを探り出すしかない。
私は質問の方向を変えた。
「殿下。私のことはリリアンとお呼びください」
「それでは改めて、リリアン。最近、王国内で流行している“魔薬”について何かご存知かしら?」
リリアンは少し眉を動かしたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「ええ、存じております。私たちの商売を邪魔していますので、否応なく耳に入ってきます」
確かに、それは理解できる。
だが、あえてその点を掘り下げる。
「“邪魔”とは、具体的にどういったことかしら?」
「殿下は、魔薬をご覧になられたことはございますか?」
「ええ、他の魔法薬と比べて少し濃く、紫に近い色だったと記憶しています」
「そうなのです。こちらが魔薬。そして、こちらが私たちの流通させている魔法薬です」
リリアンは空間から瓶を二つ取り出し、私の前に差し出した。
「確かに、色は似ているわね……」
私は瓶を見比べながらつぶやいた。
「そこが第一の問題点です。そして、次に匂いを嗅いでみていただけますか?」
「一つは甘いシロップのような香り。もう一つは、熟成したワイン樽のような香りがするわね」
「その通りです。知識がある者であれば匂いで見分けがつくのですが、私たちの魔法薬を知らない者には両方とも“独特な匂いの薬”と認識されてしまっているのです」
「甘い方が魔薬、かしら?」
「ご明察です。そして、価格面でも差があります。魔薬は標準的な魔法薬と治療の効果に違いはないものの、安価で販売されています。私たちの魔法薬は効果が高い分、価格もそれなりです」
「ということは、売上に影響が出ている?」
「はい。魔薬の流通が始まってから、新規顧客の獲得が止まり、売上は当初の想定よりも大幅に落ち込んでいます」
「“邪魔されている”というのは、そういう意味なのね」
「大きくはそうです。そして――魔薬最大の問題点についても、殿下はご存じですか?」
「ええ。依存性があることでしょう?」
「その通りです。魔薬には、色と匂いを引き出すために、依存性のある薬草が使用されています。その成分は長期間服用すれば、身体に損傷を与えます。潜在的な顧客であった冒険者たちが引退に追い込まれ、市場そのものが縮小を始めています」
「なぜ、そんなものを流通させようとするのかしら……」
「これはあくまで想像ですが、私たちの魔法薬が急速に市場を拡大したことで、従来の商人たちの売上が大きく下がっています。
そこで魔薬の危険性を利用し、私たちの魔法薬も危険と誤認させ市場から排除する為かと思われます。私たちの排除が終わってからは依存性のある魔薬の価格をつり上げ、一気に資金を回収し、魔薬も撤退しようとでも考えているのではないかと」
想像にしては飛躍している説明のように思えるが、筋は通っている。
紫の薬師が魔薬を流通させているとするには、あまりにも損失が大きすぎるのも理解できる。
もし彼女の理屈が事実なら、確かに彼女たちと魔薬との関係性は薄い。
けれど、それを裏付ける確実な証拠は――ない。
「あなたの言いたいことは分かるわ。確かに、可能性としては理解するわ。ただ方法としてはリスクが高すぎないかしら?」
リリアンは少し考えてから発言をする。
「殿下は私たちの流通方法をご存じでしょうか?」
「いいえ。知らないわ」
「私たちは信用できる商人にのみ私たちの魔法薬を卸しています。そうすることで、私たちの情報が表にでないようにしています。今回の犯人も製造元が分からない為、このような回りくどい方法を取ったと思われます」
「それが、リスクと見合うということかしら?では、なぜリリアン――あなたは私の前に現れたのかしら」
「そちらについてはセリオス様より、信用のおける数少ない方であると紹介を受けているからになります。」
セリオスはいつ私を紹介したのかしら……。
――事前に聞いていた?
この領に来てから、なんとも説明のつかない違和感がある。
私は話の流れを変えてみようと試みる。
「わかったわ。それじゃ、セリオスとリリアン。取引をしないかしら。」
私は二人に対して条件付きの取引を持ちかけることにした。
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