閑話1.タリア
彼女――タリア・クローディアは、魔導具の研究に行き詰まり、焦燥に胸を焼かれていた。
「なんとか次の魔導師学会には結果を出さないと……金が……」
その言葉が脳裏を巡るたびに、胸の奥で鈍い痛みが繰り返される。
机の上には、崩れかけた魔力回路の設計図、動かない試作機、空になったインク壺。
ただ眺めているだけで、ため息が漏れた。
最近は夜も眠れず、目の下に隈が浮かび、指先は冷えきっている。研究に没頭するどころか、現実に押し潰されそうだった。
「――どうしたものか……」
額を押さえ、椅子に深く沈み込む。そこで、机の片隅に置かれた封書に目が留まった。
それは、長年付き合いのある商人から届いた、奇妙な依頼だった。
内容は至極単純なものだった――「娘を預かってほしい」。
一見奇妙な依頼だが、提示された条件は悪くない。預かっている期間中、継続的に資金が支給され、さらに「返還時の状態」によって追加の報酬が支払われるという。 内容は簡単だが、どこか引っかかる。しかし、報酬は悪くない。何より、継続的な資金援助は喉から手が出るほどありがたかった。
タリアは悩む余裕すらなかった。明日の生活費すら危うい今、この依頼は渡りに船であった。
「娘を預かるだけでお金がもらえるなんて、そんな都合のいい話が……いや、今は考える余裕もないか」
提示された依頼料は決して高額ではなかったが、大人一人と子供一人が生活するには十分な額だった。
翌日、商人が娘を連れてやってきた。
現れた少女は、黒髪の長髪に大きな眼鏡をかけた子だった。整った顔立ちをしているが、どこか頼りなげで、常に俯き加減。無言で、ほとんど動こうとしない姿は、初対面のタリアにも「扱いづらそうだ」と思わせるものがあった。
「娘を預かっていただきありがとうございます」
商人は礼を述べると、娘を紹介した。
「この子はニーナといいます。一通りの読み書きと算術は身につけていますので、書類整理などの簡単な手伝いにも使えるかと思います」
商人の歯切れの良い話しぶりと簡潔な説明。タリアがこの商人と付き合いが永い理由の一つではある。
「魔導具技師の書類整理って、そんなに簡単じゃないんだけどね……」
高度な専門知識を要する魔導書や設計図の整理は、たとえ魔導師であっても困難な場合が多い。商人の娘にそれを任せられるとは到底思えなかった。
「まあ、適当にやらせるさ。それより、依頼料はちゃんと出るんだよね?」
「ええ、契約書に明記した通りです。商人は契約を何より重んじますから、そこはご心配なく。ただし、私に支払い能力がなくなった場合、すぐに報告します。その時点で契約終了となります」
「わかった。それなら問題ない」
こうして、タリアはニーナという少女を引き取ることとなった。
商人は礼を述べると、タリアの家を後にし、街の中心部へと去っていく。
タリアはニーナに声をかけた。
「それじゃあ……まずは掃除をお願いしようかな。このリビングを片付けてくれ」
そう言い残すと、タリアは自室の研究室へと引き上げた。
――
タリアが研究室から戻ると、リビングは出る前と何も変わっていなかった。
散らかった食器や衣服はそのままで、少女――ニーナは、部屋の入り口で立ち尽くしている。
「……何もしてないじゃないか」
タリアは額に手を当て、ため息をついた。
ニーナはじっと床を見つめ、ただ手に何かを持っている。それは、タリアのローブだった。
「それは、どうした?」
タリアが問いかけるが、ニーナは無言のままローブをぐっと握り締めていた。
どうやら、足元に落ちていたローブを拾い上げたまま、何もできずにいたらしい。
「……まあいいわ。そのローブ、入り口の近くにでも掛けておいて」
タリアが指示を出すと、ニーナはゆっくりとうなずき、言われた場所にローブを掛けた。
次にニーナが拾い上げたのは、帽子だった。
「それもローブの隣に掛けておいて」
タリアがそう伝えると、ニーナはまた黙って頷き、帽子もローブの隣に掛けた。
どうやら、細かく指示を出せば動いてくれるようだ。
「……なるほどね」
タリアは腕を組みながら、ニーナの姿をじっと観察した。
彼女は自主的に動くことができないが、指示されたことは正確にこなせるようだ。
「……それじゃあ、次はこの机の上を片付けてちょうだい」
タリアが机の上の食器を指し示すと、ニーナは迷うように視線を彷徨わせた。
「何か分からないことでもあるの?」
タリアが尋ねると、ニーナはかすかに首を横に振る。しかし、彼女の手は動かない。
――もしかして、具体的に何をどうすればいいのか分からないのか。
タリアは苦笑するしかなかった。
「まったく、手がかかる子を預かったものだわ。いいわ、全部言ったようにやるんだよ」
タリアは一つ一つ、「これをこうして」「それをそこに置いて」と丁寧に指示を出していった。
ニーナはタリアの指示に従い、衣服を一枚ずつ整えたり、食器を所定の場所に片付けたりしていく。
気がつくと、外はすっかり暗くなり、部屋の中は静かに冷え込んでいた。
「ニーナ、近くのランプをつけて」
タリアがそう言いながら、目の前のランプに視線を向ける。
だが、ニーナはタリアが見ていたランプではなく、自分の近くにある魔導具のランプに手を乗せた。そして、そっと魔力を流し込むと、ランプが柔らかな光を放った。
「……あんた、魔法が使えるのね」
タリアは驚きの声を漏らした。
目の前のランプは、第二魔法――火属性魔法を使わなければ点灯しない魔導具。それだけでなく、点灯にはそれなりの魔力量が必要とされる。これを使いこなせるということは、ニーナは魔法の素養があるということになる。
「……しかも、第二魔法まで使えるなんて」
タリアは改めてニーナを見つめた。
この年齢で第二魔法が使える者は、貴族の使用人として雇われたり、領主の魔導師として訓練を受けたりすることも珍しくない。
「あなた、本当に商人の娘か?」
タリアがそう尋ねると、ニーナはぽかんとした顔をしていた。どうやら、タリアが何に驚いているのか理解していないようだ。
タリアは椅子にどさりと腰を下ろし、深く息を吐いた。
「……まったく、妙な子を押しつけてくれたものね」
視線を上げて、改めてニーナを観察する。小柄な体、無表情な顔、そして手のひらに残る微かな魔力の余韻。
(ただの商人の娘にしては――随分じゃないか。)
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