終章:残骸の日々へ

辻峰久桜-1


 恋人である紫空が、交通事故で緊急搬送されたのが分かったのは、仕事を終えて帰ってきた深夜の出来事だった。


 途中で連絡がつかなくなったことに、違和感は確かにあったことを覚えている。

 それでも普段から定期的に連絡が返ってこないことがあったゆえの見過ごし。

 それが、最初の後悔である。


 緊急連絡先として、自身の番号を設定してくれていたため、翌日には紫空の下へ行くことができた。

 だが、そこで主治医から受けた説明には、愕然とさせられる。


 下された診断は、腰髄損傷による半身不随。

 幸いにも頸髄など、命に関わる神経の損傷はなかった。

 一方、今後は自力での歩行は困難であるとされた。


 紫空は歩いているところ、右後方から突っ込まれる形で交通事故に遭ったという。

 運転手は昨日のハロウィンによってどんちゃん騒ぎをしていたらしく、酷い二日酔いじょうたいだった。結果として、事故に至ってしまったのだという。

 運転手の呼気からはアルコール反応こそ出なかったものの、居眠り運転に近い状況だったそうだ。


 そんな状態で事故が起こってしまったため、主治医の相澤は「幸運だった」と、励ましの言葉をかけるに至った。


 しかし、それでも久桜は愕然とさせられた。


 紫空は未だ、命に別状はないものの昏睡状態にある。

 原因は複数考えられるが、それでも大事に至る状況ではないことは、自らも理解していた。


 目が覚めぬ紫空の横で、手を握りつつも、言葉を出せなかった。

 当然、早く目を覚まして安心させて欲しい。


 その傍らで、起き上がった紫空へ、なんと言葉をかければよいのか。


 少しずつ仕事が安定してきた矢先の出来事。

 唯一の救いが、彼の仕事はデスクワークが多いことである。

 訓練を積めばこれまでの日常生活は送れる可能性が高いことであろう。


 それでも、下半身が全く動かなくなるという、あまりにも酷な出来事を受容するのは簡単なことではない。


 久桜は、恐れていた。

 覚醒した紫空が、どんな反応をするのかということを。


 既に十年を越える付き合いをしているからこそ、紫空のことが分かりすぎてしまう。

 当然、彼がどんな気持ちで、血反吐を吐きながら努力をしていたのかということも。


 努力を欠かさず、血の滲むような時間があった。

 気丈に振る舞うその裏側では、不安定な気持ちと後悔の念がせめぎ合っていることを、久桜は知っている。



 ふと、久桜は過去、紫空に語った言葉を思い出した。


「自殺で死ぬことはしないでくれ」


 自分の言葉ゆえからやや曖昧であったが、それでもそんな意味合いだったことははっきりと覚えている。


 これが、自らに咎を生むもう一つの後悔。

 紫空は常に、心の何処かで「自殺」の選択肢があった人間である。

 そんな人間に、これほどの重荷を背負わせる言葉があるだろうか。


 もちろん、この話をした時は、紫空のメンタルが安定している時であった。

 だが、目を覚まして今の自分の状況を咀嚼していけば、この言葉が彼を追い詰める一言になるのは間違いない。


 久桜は自らの言葉が呪いにならないように、強く心の中で祈った。


「紫空、頼む。頼むから、一緒にいてくれ」


 願う言葉は虚しく、病室の中へ吸い込まれていく。

 同時にノックの音が響いた。

 それは、面談時間の終了を告げるスタッフである。


「申し訳ありません、お時間ですので」


 スタッフは申し訳ない調子でそう続けるが、久桜はどうするべきか悩んだ。

 自分は恋人であり、一緒に暮らしていると、打ち明けるべきなのだろうか。

 本当であれば目を覚ますまでは片時も離れたくない。

 だがそれには、紫空との関係を明かす必要が出てくるだろう。


 紫空はそれを、受け入れるだろうか。


 ただでさえ付き合っているという旨の話は周囲に漏れたくない様子であった紫空は、恋人がいることすら周囲へ伝えていない。

 自分の気持ちを優先して、紫空のことを話すのはアウティングに含まれるのではないだろうか。


 こういう時に話し合っておかなかったことが悔やまれるも、今からそんなことを言っても仕方がない。


 久桜は噛みしめるように、「分かりました」と従った。

 どっちにしても自分にも仕事がある。

 流石に命の危機でもないのに、つきっきりの看病は土台不可能な話だった。



 久桜は仕事をできるだけ早めに回してもらい、面会時間のギリギリで滑り込めるように、なんとか仕事をこなす。

 仕事を終え疲弊しきった体を引っ提げて、彼の下へ通う生活。

 それはほんの数日であっても、かなりの疲労が蓄積する。



 心身ともに、少しずつ限界を迎えつつある時に、紫空は目を覚ました。


 後のことは置いておき、ひとまず意識が戻ったことに安堵させられる。

 それは、看病を続ける生活が新たに始まっていく。


 しかし、久桜はすぐに紫空の変化に気付かされた。

 紫空の態度が、どこかよそよそしいように感じるのだ。


 自らのことは気にしないで欲しいと言わんばかりに、仕事を優先するように話すのは日常。

 痛々しく笑って、今までと同じように装う言動。


 辛くないような表情で、必死に今の生活に順応しおうとしているようだった。


 それを見て、久桜は何もできなかった。

 これが最後の後悔。

 本当ならば、紫空の隣で本音を吐き出させなければならなかったというのに。


 自分はそんな痛々しい紫空のことを、見送ってしまった。

 自分自身が、彼の感情に向き合う構えができていなかったのは理解している。


 仕事、看病。

 削られていく自分の時間が、少しずつ自らも心を侵されていることは、もはや明白だった。


 紫空が目を覚まして、車椅子での生活を少しずつ練習していく中、退院の目処は少しずつ立ち始めた。

 退院が現実的になる中で、お互いを苦しめたのは新しい生活である。


「車椅子で、君の家に戻れるかな」


 紫空は、まるで濁った雲から雨が降らないよう、心配しているかのような素振りでそう微笑んだ。

 穏やかな表情の裏側で、どんなに不安だったことか。


 それを分かっていながら、久桜は素知らぬ調子で言葉を返してしまう。


「そうだな。家の中を片付ければ、多分」


 曖昧に、曖昧を重ねる返答。


 それは自分でも感じていたところであるが、対する紫空は表情一つ変えずに笑った。言葉もなく。


 きっとそこから先の言葉を探していたんだと思う。

 こんなにもそばにいて、この程度の自分に焦りと怒りを感じるが、同時に突きつけられる。


 自分は、これから先本当に、彼の横にいる事ができるのだろうか?


 正直、自信を持つことができないでいた。

 事故が起こる前にはあれだけあった自信が、無常にも枯れていく感覚がする。


 これから紫空は、移動面だけではなくあらゆる部分で手助けが必要になる。

 自宅は当然、車椅子用の動線が必要になる。 

 排泄に関してだって、定時での導尿や、特定の日付で排便が必要になるだろう。


 このときばかりは、久桜は自らの職業を呪った。

 医者だからこそ、紫空の状態から生活の状況を深く想像が着いてしまう。

 同時に、その想像に自分たちが暮らしているイメージが、湧かなかった。


 きっとその不安な感情を、見透かされていたのだろう。


 それから紫空は、目に見えて言葉をかわす機会が減っていった。

 微笑んでいるが、上辺だけ貼り付けたような痛々しい笑顔だけを、こちらに晒している。


 もはや、彼が何を想っているのか、何に苦しんでいるのか。

 それすらも。自分には分からなくなっていた。


 もちろん、久桜は紫空のことを誰よりも愛していた。

 にも関わらず、少しずつその心が離れていっているような気すらしている。


 不安定な自らの心を吐き出すため、久桜が取った行動は、とにかく人に話すということ。


 誰だって良い。関わりのある人へ、今の状況を少しだけ話を変えてしていった。

 たった一人でこの感情を持つことが、苦しくて仕方がなかったから。

 沢山の反応をしてくれた。


「そんなつらい状況は耐えられない」


「久桜は悪くない。強いて言うなら、事故を起こしたやつが悪い」


「苦しかったね。少し休んだら?」


 色々な言葉を受けた久桜が、最後に感情を吐露したのが、両親である。

 今まで久桜を責める言葉はなかった。


 それだけ、この状況が多くの人に対して同情を誘うものだったのだろう。

 そう解釈して、行き当たりばったりな調子で事を話す久桜へ、両親は激昂した。


「ふざけるな! お前、自分が彼に何をしたのか、自覚すらできてないのか!?」


 父は殴り飛ばさん勢いで、胸ぐらを掴む。

 思わず「え?」という素っ頓狂な声が出てしまったが、父は更に檄を飛ばす。


「一番辛いのは、彼に決まっている。お前は、紫空君を真っ先に支えなければならないのに、何を腑抜けたことを言っている!?」

「父さん……」

「家族として、お前がショックを受けるのも分かる。だが、それを乗り越えられなければ、お前が彼の傍にいる資格はない。はっきり言って、医者としても、貴様はその風上にも置けないぞ」


 怒号を飛ばした父の言葉に、久桜は驚きを隠せなかった。

 真正面から自らの行動を咎める父の言動。


 これこそが、自分が求めていた言葉であることに、やっと気付かされる。

 それだけではない。

 父がそれほど、自らと紫空のことを真剣に考えていることに、驚かされた。


 明らかに父は、紫空のことを「息子のパートナー」として認識している。

 それが堪らなく、心強く、久桜の心を安堵させた。

 その感覚とは裏腹に、父は突き放すように胸ぐらから手を離す。


「人に興味のない、人形みたいだったお前が、俺たちに彼を紹介したのは、その程度の覚悟だったのか。呆れてものも言えん」

「そんなこと……」

「その程度の覚悟なら、悪いことは言わない。今すぐ彼とは縁を切れ。彼にとっても、それが最良だ。相手に失礼極まる」


 父の吐き捨てられた言葉。それに対して久桜は突発的に、言葉を捲し立てた。


「その程度ってなんだよ! 俺は紫空が大切だ、絶対、離れない!」


 憤って飛び出た言動が、音を立てて空回る。

 それに対して父は、冷たい眼差しを向けていた。


「なら、それを行動で示せ。お前がするべきことは、ここで言い訳することじゃない。今すぐ彼に謝って、これから生きる未知を考えることだろう」


 突きつけられた言葉は当然のものばかり。

 それなのに、そんなことすらも出てこなかったことが、自分の愚かしさを主張するようだった。


 久桜は気がつけば紫空の下へ向かっていた。

 今まで自分がしてきた愚かしいことを、今すぐ謝罪したかった。


 すべての事情を話せば、面会時間外の今でも少しくらい、話すことができるかもしれない。

 そんな淡い期待を胸に病室へ向かった久桜は、やけに喧騒に満ちた病室の前で足止めを食らう。


「何があった!?」

「園田さんが倒れて……酷い高熱です」

「すぐに処置を!」


 明らかにそれは、紫空のことを言っていた。

 焦る気持ちを押さえつけてはみるが、上手く冷静に状況を把握することができない。

 気づけば、周囲の看護師に食って掛かるような勢いで詰め寄っていた。



 状況の判断が着いたのは、それから二時間後である。

 どうやら感染症の悪化により、すぐに処置が必要な状況になってしまったようだった。

 しかし未だ、紫空の意識は戻らないのだという。


 これまで混迷を極めていた感情を腹に決めた途端の悲劇。


 久桜は思わず泣き出しそうになってしまうが、同時に夜中に差し掛かっているというのに、電話が鳴り響く。

 それは、母からの電話だった。


「紫空さん、感染症で今大変なんですって?」


 母は思わぬ内容で口火を切る。

 なぜその話を知っているのかと尋ねるよりも前に、母は「付き合いのある看護師から聞いてね」と続けた。


「免疫力の低下で、確かに感染症のリスクはあったと思うけど、それ以上にメンタルの部分が大きいかもしれないわね」

「……どうして、その事を今?」

「バカ、この世で本当に大切な人がそんな状態で、アンタが弱ってどうするの?」

「父さんにも、同じように言われた」

「そう、だからこそ。シャキッとしなさい。大丈夫、紫空さんは、アンタが思っている以上に強い人よ。自分の道は自分で切り開いていける人なんだから」


 母の言葉に、久桜は心を解かれたように、気持ちが軽くなる。

 今まで自らを縛り付けていたもの。それは、「紫空を助けなければならない」という呪詛。


 そう、自分が何から何まで、やってあげなくてはと思い込んでいた。


 例え不自由であったとしても、紫空はきっと自ら生きていくことができる。

 その強さを、すっかり蔑ろにしていたのだ。


 そのことに気付かされた時、久桜はようやく苦しみから前に進めた気がした。


 手を貸してあげるんじゃない、一緒に生きなければ。

 腹に決めた久桜は、ようやく、対等な立場で、隣に立つことが許されたと気付かされる。


 静かに眠っている紫空の隣で、深々と謝罪の言葉を述べた。


「紫空、俺が間違ってた。お前は、俺よりももっとしっかり、自分で生きようとしていたのに。ごめん」


 うずくまるように、紫空の手のひらを額に翳す。

 ただ、生きていて欲しい。

 純粋な願いが結ばれるように、その手のひらが少しずつ温もりを取り戻していく。


 それから数分、少しずつ意識が戻っていく紫空へ、久桜は涙を浮かべながら声を掛ける。


「紫空……分かるか? 久桜だ、大丈夫か?」


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