第五章:理想郷
120日後
事故から暫くの間、紫空は半身不随となってからの生活に慣れるため、厳しいリハビリ生活を送ることになる。
だが、それは想像を絶するほど過酷なものだった。
日常生活のあらゆる部分で、人の助けが必要になる。
これまで自分が如何に自由な生活をしていたのかを突きつけられた。
体は上半身しか動かすことができず、主要な移動は当然車椅子が必要になる。
長時間同じ姿勢になれば皮膚が褥瘡を起こすため、定期的な体位交換をしなくてはならない。
そんな中、最も紫空を精神的に苦しめたのは排泄の問題だった。
脊髄の損傷によって、下半身の大半が感覚をなくしており、それは「排泄」の時に大きな影響が出る。
紫空の場合、尿意は微かに感じることができる程度の感覚は残っていたが、便意については一切の感覚がなかった。
それ故、尿意は定時排泄を徹底するところから始まった。少しずつ生活に慣れていくことで、日常生活に支障ないレベルにまで戻る可能性があるらしい。
しかし排便については、自力での排泄が難しい。
そのため、週の特定タイミングで座薬により排便するしかできない。
幸いにも、上半身に麻痺が残らなかったため、これらの排泄は自分で行う事になった。
しかし、これが心に強い瑕疵を刻む事となる。
意識が戻って二日目の時点で、紫空は失禁を繰り返していた。
普段と異なる尿意の感覚だけが原因ではない。
単純に、下半身が完全に動かなくなったことによって、排泄が間に合わないケースが多発した。
尿意を感じてから失禁に至るまでの時間感覚に慣れないことも理由の一つであろう。
その対応として、生活の質を落とさない範囲で一時的にリハビリパンツの着用をすることとなった。
失禁をした際、当然人の手を借りなくてはいけない。
それが、これまで身体面での障害のなかった紫空にとって、この上なく辛いものだった。
耐えられず、下着やズボンが汚れ、それを取り替えてもらわなければならない。
コールを押す手のひらが躊躇いで震え、恥ずかしくてたまらなかった。
ほんの数日程度の間で、紫空は露骨に精神的な疲労を抱える事となる。
それでも、毎日少しの時間、久桜と話すことができることが、心の支えであった。
お互いに、決して明るいわけではない。
それでも、お互いの顔を見合わせてともに語り合う時間だけは、事故前のあの日々を思い出すことができた。
車椅子の扱い、ベットからの移乗、排泄の感覚、定期的な座薬による排便。
半身不随になった紫空は、少しずつだが、日常への兆しを見せつつあった。
度重なるリハビリと、体に残る強烈な激痛は当然地獄のような日々。その隣にはいつも、久桜がいてくれた。
それでも、紫空の回復は予定よりも遅れる事となる。
本人の精神的な部分があるのか、中々快調に向かわず、半年ほどの入院が必要になるという。
退院までの見込みができたことで、紫空の体調は少しずつ好転していく。
けれど、退院間近まで回復してきた頃だった。
思いがけない事件が起こる。
面談時間になる二時間前。朝食を終えてリハビリの最中、紫空に話があるとして強引な調子でとある人物が病棟を訪れる。
それは、紫空の父親であった。
自分の夢を「下らないこと」と一蹴して、パソコンをへし折った父親。
最も見たくない人物の顔が、最悪のタイミングで現れたことに辟易させられる。
それに加えて、父親は面談の時間外にも関わらず、「家族だから」という理由で特別に対応をしてもらえたのだという。
父は外面良い態度で、病院の職員や相談員には「愚息が大変な迷惑を」と頭を下げて回っていた。
だが、病室で二人っきりになった途端、その本性を表した。
「……どういうつもりだ? 顔も見せなくなったと思ったら、まさか事故だなんて」
見下すような調子でそう言い放った父親は、汚いものでも見るかのような眼差しを、紫空の下半身へ向けた。
すっかり動くことのない、痛々しい患部が、父親の目に触れる。
確かにこれは、父親が子どもに期待していたようなものではないだろう。
親として、愕然とした気持ちになるのは想像に難くない。
だが、そんな眼差しを向けられたこちらは、どんな気持ちになるだろうか。
尤も、こっちの感情を推し量る事ができる人間などではない。
こちらも同じような視線を向ければ、父はくぐもった怒号をぶつける。
「成人まで育ててやってこのザマか!? ガキが親に歯向かうようなことした罰だな」
「……もう、僕は成人してる。父さんの手は借りてない。それに、僕には僕でもう、大切な人がいるから」
「あぁ~、お前、男と付き合ってるんだってな? 気持ち悪い。第一、お前そんな体で、一緒に暮らしていけると思ってるのか?」
心無い言葉が、紫空の胸を静かに鳴らした。
奥底にあった、小さな楔が熱を帯びる。
そんな体で、暮らしていけるのか?
意識を取り戻して、何度も抱き、目を逸らしてきたことだった。
久桜は少しの嫌な顔をせず、いつも回復を願っていると微笑んでくれる。
医者だからこそ、「半身不随と」いう状況が、よくわかるというのに。
確かに、障害を抱えていたとしても、生きていくことはできるだろう。
けれどそれは、パートナーである、久桜に対して大きな枷をはめることにもなる。
車椅子での移動はバリアフリーであることが前提であるし、排泄に関しても時間的制約が大きい。
また、久桜は医師という、社会的にも立場のある人間となっていく。
そんな人間のパートナーとして、果たして自分はふさわしいのだろうか。
健常者であった自分ですら、彼の隣に立つことはおこがましいとすら感じていた。
にも関わらず、今の自分に、久桜の隣にいる権利などあるのだろうか?
必死に見ないようにしてきた感情が、底から吹き出す水のように湧き上がってくる。
押さえつけても、何をしても、止まらなかった。
隙間から溢れてくる感情の水は、滔々と心の表面を涙となって濡らしていく。
抑え込んでいた感情が、少しずつ自分の限界へと向かっていく。
繕っていた感情が倒壊していく音が、爆ぜる音がした。自分の感情がどんなものになっているのか検討もつかず、唇は怒りと情けなさから歯を突き立てていた。
紫空が感情の濁流に飲まれている間も、父は延々と暴言を吐き連ねた。
最後には「もう二度と顔を見せるな」という、勘当する時の決まり文句のようなセリフを吐き捨てる。
それからたった一人、孤独の中で残響を聞いていた。
もう、部屋の中に音はないというのに、未だ紫空の頭にはどす黒い罵声が鳴っている。
耳をすませば、その罵声は自分の声だった。
ここまでも散々、久桜には迷惑をかけたというのに、更にそれを上塗りするのか。
苦しくて仕方がない。
今すぐ、この場から消え去ってしまいたい。
こんな自分が久桜の隣になどにいることなど、できない。
久方ぶりに紫空を襲ったのは、過去より時々起こっていた、精神的な発作症状である。
頭の中で自分に対する強烈な批難と、呪詛の言葉。
何度も、何度も頭の中で繰り返された。もちろんそれが、現実には起こり得ない言葉であることは理解している。
それでも、その言葉が異様なリアリティを持って頭の中に流れていた。
紫空は震える手のひらで、ベット脇にあった車椅子を手で手繰り寄せる。
どこか、遠い場所へ消えてしまいたい。
強烈な強迫観念が感情を軋ませ、乱暴な仕草で車椅子へと移乗を試みる。
当然、そんな強引な移乗をしていては、しっかりと車椅子に座ることなどできない。
バランスを崩すと同時に、紫空は勢い良く床へと叩きつけられた。
あまりの痛みに意識を失いそうになってしまう。
そんなことも構わず、紫空は床を腹ばいで移動した。
足はまるで役に立つことがなく、腹筋の腕の動きだけで、静かに窓際へと向かっていく。
死ななくては。今すぐに。
頭の中で乱反射した言葉が、発作的に紫空へ窓から飛び降りさせようとする。
ようやく窓枠に手を伸ばして、遥か遠くにある小さな地面へと視線を向けた。
紫空は、そこで久桜との約束が脳裏を過ぎる。
「絶対に、自ら命を断つようなことはしないって」
自らを優しく包むような言葉、あの日の約束。
絶対に自殺してはいけないという、久桜との約束が、小さく自らの手のひらの力を緩めた。
死ねない。自分の手で、死んではいけない。
それを寸前の所で思い出させられた紫空は、思わず床へとへたり込む。
ただ、情けなかった。
肉塊と化したこの足だけではない。
大切なパートナーの隣に並ぶことのできない自分。
父親の言葉を返すこともできなかった自分。
あらゆる自分が、情けない。
無数の感情が組み合わさった結果、紫空はぽたぽたと涙が浮かんでいた。
自ら死ぬこともできない。
そんな中、この地獄のような生活をどうやって生きなければならないのか。
得ることのできない答えを模索しているうちに、紫空は床へうつ伏せのまま倒れ込む。
死を彷彿とさせるほど、体が熱くなっているようだった。
爆音の動悸を肌で感じながら、そこで紫空は完全に意識を閉ざしてしまう。
これこそが、紫空を悪夢へ捉えた瞬間。
記憶として存在するのはここまでである。
これまでの乱雑な記憶の断片たちは、紫空自身の混乱と喘鳴。
薄れゆく意識の中で、紫空が感じた最後の願いはただひとつ。
「この世界から自殺以外の方法で消えてなくなりたい」というものだった。
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