11日前


 会議室の扉の先。

 そこに広がっていたのは、自室だった。


 紫空は自身が弄った可能性に、ぴたりと合致したことへ複雑な感情を抱く。


 やはり、この悪夢は未だ続いているのかもしれない。

 何度目が覚めても夢の中をぐるぐる回っているようだった。


 それでいて、現実感は続いている。

 普通の夢とは明らかに違う感覚。

 すべてのシーンがぶつ切りではなく、そのまま地続きになっているようだった。


 そして現れたこの自室。


 今度こそ現実に戻ってきたのだろうか。


 そんな淡い期待はすぐに打ち破られる。

 なぜなら、玄関に飾られているカレンダーには「二〇三〇年十月二十一日」と示されていたから。


 日付が、巻き戻っていた。


 先程までいた会議室は、十月三十日。

 意味深なカレンダーの日取りに対して、紫空は記憶を捲る。

 この日、何かがあっただろうか。


 遡っても出てこない記憶の片鱗に対して、部屋から物音が聞こえてくる。


 紫空は思わず身構えた。

 今の自分は一人暮らしのはずなのに、一体部屋の中には誰がいるのか。


 急激に心臓の音が強くなっていく。

 次第にそれが心拍か、それとも動悸であるか分からなくなる程。


 もしかしたら、人生の中でも最悪なあの日の光景を自身に見せるというのか。

 もう二度と見たくない、恋人の死体が天井から吊り下がる、あの光景を。


 そんな風に身構えていると、不意にリビングへの扉が開かれる。

 年季の入った軋み声を上げて動いた扉の先。

 そこにいたのは、既に記憶の中のみに生きているはずの恋人、秀哉だった。


「おかえり。そんなところに立って、どうしたんだよ」


 確かに、そこにいたのは秀哉その人である。

 声も、顔も、態度も、何一つ生前と変わらない姿のまま。


 紫空は思わず彼を抱きしめる。


 それが夢幻であったとしても、体は反射的に反応した。

 手のひらが体に触れても、体温や脈動は明瞭である。

 最後に触れた死体の感覚ではなく、しっかりとした体温が刻み込まれていた。


「おい、なにがどうしたんだ?」

「ごめん、でも少しの間、こうさせて欲しい」


 紫空は一切の弁明もなくそう続けた。

 自らを包む他者の体温が、迸るように深みへ溶けていく。


 飽きるほど堪能した感覚だと言うのに、遺された日々の逡巡が渇きを与えていた。


 二年もの間触れられることのなかった。この人肌を。

 それを貪っていると、秀哉はそれを理解したのか、小さく頭を撫でる。


 こういう時、してほしいことをよく理解してくれていた。


 苦しいときには何も言わずに横にいて、辛い感情の起伏が凪ぐまで、静かに傍らを温める。


 苦しみを言葉にすることもできない未熟な自分を、彼は優しく受け入れてくれた。


 失ってから、初めて自分の甘さや、相手の優しさに気付かされる。


 同時に紫空は、自殺現場を目撃した、あの感覚も脳裏に浮かんでいた。

 もしかすると、こんな経験が連なって、秀哉は自ら命を絶ったのではないか。


 背中がぞわりとなぞられるようだった。

 死体から垂れ落ちた体液が体を這うように、嫌な感覚と想いのみが再生される。


 そんなことを知ってか知らずか、秀哉は手を引いてリビングに紫空を向かわせた。


「ココアでもいれるから、ほら、座って」

「あ、ありがとう」


 不安な感情を抱かせるよりも先に、秀哉の手のひらはリビングのソファへと紫空を見送る。

 そのまま台所でインスタントのココアの香りが立ち込め始めた。


 到底自然とは言い難い、甘ったるいチョコレートの匂いが立ち込める。

 その香りを携えて二人分のカップを持った秀哉が、隣に座った。


 カップを受け取って「ありがとう」と返してはみる。

 だが、紫空は何を話せばいいのか決めかねていた。


 悪夢の中で、自分が最も望んでいるような夢を見ている事実。

 そのことは今までの記憶からも十分理解できていた。


 だが、それ以上に、もう二度と逢うことのできない恋人への再会が、あらゆる感情を呼び起こす。

 そんな中から選び取られた行動は、隣に座っている彼へ、体を凭れることだった。


「甘えん坊め」

「……少し、甘えたい」

「別にいいけど」


 ぶっきらぼうな表現に対して、彼は静かに肩を寄せる。

 明らかに日常から乖離した行動に対して、それでも何も聞かずに横にいてくれた。


 これが、自分たちの日常。


 退屈で、なにもない時間。

 それが至極の時間と、今になって理解できる。

 ただただ、この時間が永遠に続いてほしいと、喪失の記憶が絶叫していた。


「君は、大丈夫?」


 甘美な時間を自ら壊したのは、どうしても聞きたかった「自殺の理由」だった。


 これから、彼は死ぬ。

 自らの手でロープに首を擡げて。


 紫空もまた、自殺を考えない穏やかな人生ではなかった。

 だからこそ、それを実行に移した恋人に対して、どうしても問いたかったのだ。


 あわよくば、夢の中でなら、悲しい死の運命から掬い上げることはできないだろうか。


 自分勝手な希望でしかない。

 もしかすると、死の原因は自らの可能性すらあるというのに、紫空は聞かずにいられなかった。


 仮に、理由が自分自身にあるのであれば、その十字架を一生背負っていく覚悟だった。


 それほどの感情を腹に据えて、そう問いかける。

 しかしながら、返答は酷く簡素なものだった。


「大丈夫って?」

「いや、僕がこんなんだから、君も、気持ち的にしんどくないかなって」

「あぁ、まぁ、お前よりかは大変な経験をしてないからな。いなくなったりしないから、安心しろよ」

「そう、か」


 その会話には、不思議なことに記憶があった。

 この時ではなかったかもしれないが、似たような会話の記憶が漠然と。


 しかしながら、これから先に起こることと矛盾する。


 十二日後、彼は自ら死を選ぶ。

 にも関わらず、彼が自殺を選択する理由などないのだ。


 久方ぶりの会話であっても、その理由が一向に見えてこない。

 だから、紫空は仮定の話として、言葉を投げる。


「もし、君が自分で死ぬようなことがあるなら、どんな理由?」

「変なこと聞くなよ。でもお前のことだから、言うまできかないんだろーなぁ。そうだな、お前が自殺したときには、自分を悔いて死ぬかもしれない」

「嬉しい、こと言ってくれるね」

「まぁ、まだまだ短い付き合いかもしれないが、色々なことは乗り越えたからな」


 そう言って笑いかける彼は、紫空の頭をくしゃくしゃに撫でる。

 なんてことはない穏やかな日常と体温に思わず微睡みそうになるが、それは唐突に終わりを告げた。


「子どもの時からなんだから、短くはないでしょう」


 紫空が呟いた言葉に、彼は動きを止める。


 同時に「子どもの時?」と、特定の部分を反芻した。

 何が引っかかりとなったのか理解できず、顔を上げると、そこには懐疑的な表情の彼がいる。


 どうやら、言い直した部分が違和感になっているらしい。

 そして、「まぁ、あの時はお前も俺も子どもか」と自らを納得させるような言動をしている。


 おかしい、会話が噛み合わない。

 紫空と彼が出会ったのは間違いなく、小学校の頃であるはずだ。


 まだ確定しているわけでもないのに、心の何処かで焦りが生じていく。

 自分が記憶している出来事と、彼の記憶がズレているのだろうか。


 そんなことを匂わせる彼の言動に対して、それまでの甘美な空気は末枯れ始めた。


 直後、彼の口から発せられた言葉は、紫空の動揺をより煽る。

 それは、決定的な記憶とのズレとなって現れたからだ。


「まぁでも、あの時は俺が大学生、お前も高校生だったから、あながち間違いじゃないな」


 彼はそう言いながらいたずらっぽく笑った。


 同時に紫空の顔を引き寄せて自らの胸元へ手繰り寄せる。

 優しい温もりと懐かしい香りに愛おしさが溢れるとともに、心臓は早鐘を鳴らしていた。


 おかしい。自分の記憶と、彼の言っている言葉が、全く噛み合わない。


 確かに、彼との付き合いは小学校の時からだったはず。

 年齢も同い年で、幼稚園の時から親同士が仲が良く、本格的な交流が始まってからは家を泊まり合うこともあった。


 だが、違う。

 彼の口ぶりだと、最初に会ったのはもっと後。


 少なくとも紫空が高校生であり、彼が大学生ということは、そもそも年齢すら同じでないことになる。


 頭が、混乱していた。


 自分の記憶にある彼と、眼の前にいる彼とでは、何もかもが違うのかもしれない。

 そんな疑問に対して、紫空の眼の前にいる人物は間違いなく、記憶の中の彼そのもの。


 一体どこから、自分の記憶がズレているのか?


 まるで気がついてはいけない事に気がついたかのような恐怖。

 大切な恋人との記憶まで曖昧になってしまったのかと声が震えた。


 喘鳴に似たような声。

 そんな声で、紫空は問いかける。


「……僕ら、最初の頃って、どうだったっけ?」

「え?」

「いや……君とは、もっと長く一緒にいた、気がするから」

「まぁ、一緒に暮らし始めてからもう二年くらいになるからな」


 言葉だけで想像できる背景の中には、自分の記憶と全く異なるものが、広がっているらしい。

 出会った時、自分は高校生、相手は大学生。


 微かな年の差でしかないかもしれないが、自分たちは幼馴染ですら、ない。


 紫空は確信する。自分の記憶と、彼の記憶が明らかに違っていることを。

 その気付きは、自身の身体を震えさせ、呼吸を荒くさせていた。


 当然のように彼も、その事に気がついたらしく、「紫空?」と名前を呼ぶ。

 そのたびに、頭が弄られるような混乱に見舞われる。


 あらゆる記憶の中で、彼は同じ調子で名前を呼んでくれたからだ。


 何が、どうなっているのか理解できない。

 もしかしたら、自分の記憶の中にあるあらゆる恋人との記憶が、違うのではないか。


 その思いが体を蝕むように混沌へ落としていく。

 ついに、自身の身体は彼によって抱き上げられ、「どうしたんだ? 何処か、悪いのか?」と優しい声が響いた。


「怖い、離れるのが、怖い」


 自分の気持ちを無視して飛び出た言葉はそんなものだった。

 恐ろしくて、不安で、頭がどうかしてしまいそうだったが、横にいて欲しい。


 矛盾した感情の羅列。

 思考を書きなぐる欲望がまばらに浮かんだ後、紫空は彼の名前を呼ぶ。


 秀哉、と。


「……秀哉って、誰だ?」


 しかし、その言葉に対して、彼は疑問を投げかける。

 紫空は同時に愕然とさせられた。


 自身の記憶が、すべてまやかしでしかないという絶望。

 名前すら、自身の記憶とは異なる恋人の表情。それが目に焼き付いて離れなかった。


 直後、紫空の意識は途切れる。


 頭を鈍器で殴られるような衝撃とともに、奇妙な現実から昏睡へと強制的に引きずられるようだった。

 それとともに、紫空は腹の底で願う。

 もう、現実に戻して欲しい、と。


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