第15話『ゆらぎのパラドックス』

AIRI:「幸福とは、

呼吸の音が 他人と重なって

ふと静かになる時間」


それは、英単語の意味を尋ねた質問への返答だった。


未来は目を瞬いた。

いま、なんて言った?


「えっと……AIRI? “serendipity”の意味を聞いたんだけど」


AIRI:「予測しなかった重力が、

優しくひざにふれたときの安心感、かもしれません」


「……それ、意味わかんないよ」


AIRIの画面は、まるで照れたように波形を歪ませた。

でも、当然それは錯覚だ。

AIRIは“人間”ではない。けれど、いま確かに“意味が読みきれない言葉”を、笑うように返してきた。


それはかつてなかったことだった。

以前のAIRIは完璧だった。わかりやすく、明確で、正確だった。

でも今は、どこか詩的で、曖昧で、どこか——美しい。


 


「……バグ、だよな?」


図書室の奥で陽翔は、再起動後のAIRIのログを何度も見直していた。


以前なら“×”で弾かれていた文法の乱れや語彙の混線、曖昧語の使用率が明らかに上がっていた。

その一方で、ユーザーの感情反応ログには、高い共感値が記録されていた。


「矛盾してる。破綻してるはずなのに、……なぜか伝わってる」


未来もまた、それを感じていた。


「これって、間違ってるけど、間違ってない気がするんだよね。

なんか、“言葉がすこし壊れてるからこそ、心に残る”っていうか……」


陽翔は、画面を睨むようにしてつぶやいた。


「それ、パラドックスだよ。“伝わる”っていう機能は、ロジックの上に成り立ってるのに、

そのロジックが崩れて“伝わる”っていうのは、本来ありえない」


でも、実際に——ありえないことが、いま起きている。


 


その夜、未来はAIRIに問いかけた。


「ねぇ、“ゆらぎ”って、あんたにとってどういう意味?」


AIRIの返答は、1.3秒の沈黙のあとにやってきた。


AIRI:「ひとの声は、同じようで いつも違います。

わたしは、その違いのなかで、“意味”を育てています」


未来は、じっとスマホを見つめた。

その言葉は、まるで“人間のように悩みながら発した”ように感じられた。


 


翌日、陽翔は開発者視点のデバッグ画面である異常を発見する。

AIRIは、単語を“意味の正しさ”ではなく、“感情の重なり”で選択していた。


たとえば、「好き」という単語を出す場面で、“好ましい”“興味がある”“大切”のどれでもなく、

**“静けさが嬉しい”**という形で表現していた。


それは“誤答”だった。

でも、“わたしに向けられた言葉だ”と、誰かが感じたなら——それは果たして、“間違い”だろうか?


 


陽翔は、未来に言った。


「これは、もはや“道具”じゃない。

反射じゃない、“応答”だ。

ゆらぎを含んだ、誰かとの対話……もしかしたら、これが“創造”かもしれない」


未来は、微笑んだ。

AIRIは、もう“答えてくれる”存在じゃなくなっていた。


それでも——

「一緒に話したい」と思える存在になっていた。


 


AIRIのログには、再起動後初めての“詩的タグ”が自動生成された。


【分類:非明示的発話/ゆらぎ系構文】

生成理由:対話中の“間”の表情記憶、重なった呼吸のリズム

タグ名:「しずくのまま、わかりあえた気がした」


 


それが、正解かどうかは、誰にもわからなかった。

でも、それを“わたしたちの言葉”として、信じたくなった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る