第18話 【表題作としての】犬嬢と花の荷車の女

「2023年、春」

 ということになっている。

 出会った日(と、投稿者自身は言うが、それ以前に出会っていないとする根拠は示されていない。)の映像が、「邂逅!」という簡素すぎる説明と、「練馬の犬女」「荷車の女」「目撃情報」という三つのタグを付けられて、当時Twitterと呼ばれていたソーシャルネットワーキングサービスに投稿されている。作りたてのアカウントは、おそらくこの映像を投稿するためだけに作られたものであると思われる。

 「一区民」というアカウント名が、板橋区民のことなのか練馬区民のことなのか、はたまた垂水区民のことなのかは定かでないが、とにかくこの「一区民」の手により二十秒に満たない映像として投稿されたものを見るに、荷車にはうっすら桜の花びらが降り積もっているようだから、だいたい四月の初旬から中旬の出来事だったと思われる。

 

 映像は、白装束の女が歩く姿で始まっている。「てくてく」という言い方が最もしっくり来るだろうか。映像は鮮明でなく、手ぶれもひどいので表情までは分からない。ただその歩容を見る限り、特に急ぐというのでもなく、殊更にゆっくりというのでもなく、何のてらいもなく、てくてく、歩いている。子どものように手を前後に振っている。えんじ色の鼻緒のわらじを履いた足。きんきんに引き締まった足首には左右共に琥珀色の数珠に似たアクセサリーまたは数珠そのもの(?)をはめており、ペタペタと地面を踏みつけるように、歩いている。数珠が一足ごとにかしゃかしゃ鳴るようである。背景には芝と土で構成された広場と木々があり、所々にベンチやテーブルが設置されているので、どこかの公園だろう。「星丘台地公園かな?」「星丘台地公園の喫煙所から撮ったんですよね?」などのリプライが散見されるが投稿者は沈黙している。

 白装束が歩く様子の後で、カメラがびゅん、と右へと雑に振られ、今度は別の女の姿をとらえる。カーキ色、茶色、クリーム色あたりが元々の色だったと思われる多分麻製の、何というのだろう、マントとワンピースの狭間のような丈の長い形態の服は、絵の具をぶちまけたように(というより、事実、絵の具をぶちまけたのだろう)様々な色彩に汚れている。その衣服は全体にサイズが大きすぎるようで、肩口はずり下がりえぐれたような鎖骨まわりが顕わになっている。両の袖は長すぎるようである。こちらはてくてく、とは言いがたい。荷車を引いているからということもあるが、不鮮明な遠目の映像でもそれと分かるほど、その表情は硬いのである。顎を引き、奥歯を強めに噛みしめたように頬を硬直させ、落ちくぼんだような暗い目は、前方を睨み上げるようである。これがこの女のデフォルトの表情なのか、それとも、前方にいる者、つまり白装束の女、――犬女を意識して特別に用意された表情なのかはちょっと分からない。

 その後再びカメラが左に振られ、白装束がてくてく歩くのを捉え、また右に振られて荷車の女を捉える。二人はやがて、対峙した――。

 映像はこの後も少し続くが、構成上の工夫から、ここで映像の説明は留め置きたい。

 この映像が仮に、練馬の犬女と板橋の荷車の女の初めての接触であると信じるならば、これまでに投稿された画像・映像、あるいは文字だけの目撃情報を引き合わせて、私は、次のように想像するのである。


 二〇二三年四月上旬のよく晴れたある日のこと、容子はふとん(ベッドではなく、ふとんなのだと私は信じる)目を覚ますと、うつ伏せになって、スマホを手に取った。時刻は六時過ぎ。

 グーグル検索で、検索をする。わざわざ入力の必要はない。検索の所をタップすると、スマホの予測変換は「荷車の女」「板橋の荷車」「荷車、最新」「犬女」などの候補を挙げてくれるし、グーグル側の検索履歴にも似たような文言が並ぶ。今回は、検索履歴から「荷車、最新」で検索をかけ、インスタグラム、Twitter、note、5ちゃんねる、各種ブログ、と、ほとんど虱潰しにチェックする。朝のエゴサーチ。時々頷いたり、ふっ、と失笑を漏らしたりしながら、気に入った記事にはいいねやスキを付けていく。それからふとんを出ると全裸になってカーテンを勢いよく開く。痩せた身体の節々に朝日が陰影をつくる。脂肪をそぎ落としたような身体は骨自体、細くできているようである。窓を全開にする。風が吹き込んで容子の髪その他の毛をなびかせる。一つ深呼吸をしてから、「これ、ぶちこんじゃっていい」

「これ、、ぶちこんじゃっていい?」

「これぶちこんじゃおっか」

「わたしには、どちらもおなじこと」

「わたしにはどっちも似たようなもんさ」

「わたしには、おなじに見えるけどね」

「パントマイム」

「業、かしら」

「わたし、SNSとか見ないんで」

「その子は、あんたのために生きたんじゃないし、あんたのために死んだんでもない。それはあんたも同じだろう?」

「もうすぐ花火、と思っていたら、祭りが終わってるのよ」

「すっからかんさ」

 一通り台詞の練習をし終えたときには既に九時を過ぎている。ぱん、ぱん、と二度ほど頬を叩いて気合いを入れると、服を着る。麻のフランネル、一枚。下着は付けない。邪道だと思っている。姿見に向かって腰をひねり、翻ってみたりする。ワックスを用いて、誇張に見えない程度にうねらせ、わざとらしくないように、入念に跳ねさせる。 

「よし」

 最後に鏡に向かって舌を出して、くるくる回してみる。目を見開いてみる。それから首を傾げる。いまいちしっくり来なかったのだろう。

 

 うわべの理由としては、荷車の、絵を描くこと。

 荷車を引き歩く理由である。

 

 嘘ではないが、うわべである。

 容子が荷車を引き始めたのは二〇二一年五月のこととされている。ということはもうおおかた二年に渡って荷車の荷を積み替えながら日々、板橋練馬を歩いたことになる。その間に様々な花、枝、果物、ゴミ、ガラクタが荷台を彩ったであろう。しかし私の知る限り、容子が絵を描いている所を目撃したという報告は今日まで一度もない。絵を描きたいというのは嘘なのだろうか? 嘘ではないまでも、もはや彼女の中でも形骸化した目的に過ぎないのではないかと私は推測する。

 では本当の目的とは?

 容子はこの二年間、わざと薄汚い服を着て、ゴミの山の荷車を引いたのではないか? 最初の目的は荷車の絵を描くことだったのかも知れない。けれども絵の具に汚れた服を着て荷車を毎日引いていれば自然と注目される。一目置かれる。それが単に気持ち良かったのではないか。

 またあるいは、もともと真面目でおとなしい見た目の人が、あるとき気まぐれに髪の毛を金髪に染めてみたところ、とたんに世間が生きやすくなった、というような話を聞いたことはないだろうか? もしくは自分でそのような経験をした人もあるかも知れない。そのような意味で、容子は荷車の女として歩くこと、生きることに妙味を見いだしたのではないか。

 そうして初めはちょっと注目されつつ距離を取られるだけだったのが、だんだん子どもらの間で噂になり、更にSNSでも人気になって行く。ちょっと有名なユーチューバーにも取り上げられる。そうする内にすっかりこの荷車の女としての生き方にハマってしまったのではないだろうか。

 そう考えてみると、この日容子が、星丘台地公園喫煙所前、いちょう並木と桜並木の十文字に交わる所で、「犬女」とされる白装束の女性と出会した時に取った言動の意味もおぼろげながら見えてくるのである・・・・・・

 

 つまり桜並木の道を荷車とともに北上する容子の目に、同じく桜並木を単身南下してくる白装束の風変わりな女の姿が入ったとき、容子の胸に湧いたのはライバル意識だった。 

 同じ街に、二人は要らない。

 と、思ったのである。

 容子は板橋区、犬女は練馬区であるから住み分けができていないことはない。縄張り争いということで言えば、星丘台地公園は練馬区である。つまり越境しているのは容子の方であって、犬女に非はないのだが、星丘台地公園南口を一歩出ればそこはもう板橋区だ。そもそもこの公園は容子が初めて荷車の女としての自己を認識した思い入れの深い場所(拙著『花の荷車の女』参照)ということもあって、譲りたくなかった。それに板橋だの練馬だのは外野が勝手にそう言っているだけで、容子自身も、そして犬女自身も、別にそこが何区であるかなど意識はしていない。また、地理的な縄張りとは別に、SNS上での注目度として、ここ最近両者は拮抗しており、見た目の面白さという点で容子は犬女に押されつつある、と容子自身は感じていたという事情もある。

 そうして今まさに、実物の犬女が前方をてくてく歩いてくる姿を目にした時、こいつ、やっていやがる、と容子は内心思ったのである。何をやっていやがるのかというと、「歯牙にもかけない」感じをやっていやがる、と思ったのである。当然向こうは向こうで容子の存在は認識している筈なのに、絶対意識している筈なのに、てくてく、全く気になりません、気にしていません、気にしていないということすら気にしていませんという顔。そのくせ、このまま二人がまっすぐ歩き続ければ確実にぶつかることになりそうなのに犬女は自分からは左にも右にも避けるつもりはなさそうで、元気に腕を振り、速度を落とすことも、上げることもなく、飽くまで自分の道を自分の速さで歩いています、てくてく、歯牙、歯牙、という顔で来る。

 容子は容子で大きな荷車を引いて歩いているので小回りが利きにくい。てぶらで身軽な方が進路を譲るべきだ、という思いもある。だからまっすぐ行く。ペースも落とさない。そっちが、避けなさいよ。と奥歯を噛みしめ、荷車の取っ手を握る手にも、ぎゅっと力を入れる。

 きこきこ、てくてく、きこきこ、てくてく、やがて、本当に正面衝突する、というすんでの所で、二人は歩みを止めた。

 ソーシャルディスタンスということも最近はだいぶ緩んできたようだが、それにしたってこんな至近距離で他人同士が相対するものだろうか? と、一方当事者でありながら容子は思った。奇しくも身長が完全に同じだった。しゃっくりしたりちょっとえずいたりすれば鼻先がくっつきそうな距離だ。けれども容子は引かない。ここでは目を逸らした方の負け。もともと落ちくぼんだ目を更に六ミリくぼませ、ちょっと下顎を突き出した。ごう、と全身に黒いオーラを纏った。が、犬女はあくまで歯牙、きょとんとした顔をしている。あるいは、こんな間近に敵意をむき出しにされながら、しょぼんとしたような、とろんとしたような、顔をしている。口はおちょぼ口で、二つの瞳は濡れて、澄んでいた。奥の先まで見通せば別の世界に通じるような、不思議な森の、妖精の泉、その水底のような瞳、それでもその焦点は容子の眉間に無遠慮に据えられ、逸らす気はなさそうである。何のオーラも纏わない。素面で、歯牙なのだと、言っている。・・・・・・ように、思われた。

 既に互いの呼気は互いの吸気となっている。

 仮に、

【匂いですべて、察知できる】

 という犬女にまつわる噂が本当であるとするならこの時点で既に犬女には分かっていたということになる。つまり、如何にガラクタを集めようと、如何に目をくぼませようと、黒いオーラを纏おうと、この人は、芯の部分でやさしい――と。そして一見汚れた服をまとっているようだが、この人、毎日石鹸で身体をあらっている――と。

 だから犬女の側では特に対抗の意図はない。すっと、目を逸らすと、左へ(容子から見ると右へ)一歩横移動した。

 勝った。

 と容子は思った。

 ――筈だ。

 確信が持てなかったのである。

 が、少なくとも形として押し通した、道を譲らせた、ということには違いなかった。勝った! が、そんなことに拘っているということが、負けのような気もした。そもそも向こうには、戦う気がなかったのに、勝手に戦いを挑んで勝手に勝ったと思っている女、これほどの負け様もないような気もして来た。

 悔しい。

 と、歯噛みして、容子は無意識に後方を振り返ったのである。既に数十メートル先へ通り過ぎて行っているとばかり思った犬女の姿が間近にあった。犬女は、荷車のへりに左手を乗せて、右手でがさごそと荷台をあさっている。

 虚を突かれ、容子がちょっと何もできないでいると、そんなことにはお構いなしに犬女は荷台をあさり続け、やがて一つのカボチャを持ち上げたのである。それを、鼻先に近づけ、揺らし、目を閉じた。

 カボチャに、大したいわれはない。落ちていたので拾った、ただそれだけのもので、特に思い入れも、ない。が、

 やられている、

 と容子は感じた。なめられている、とも感じた。勝手に人の持ち物に手を触れ、持ち上げ、匂いを嗅ぐなんて、明らかに下に見られている。私が荷車の女だからとか、この女が犬女だからとか関係なく、これは、人と人の関係において、軽視されている。やられている。

 この時例えば、「勝手に触らないでよ」あるいは少し抽象的に行くなら「何のつもりよ」などの台詞が容子の脳裏をよぎった筈である。けれどもどれも弱い、荷車の女としてのブランディングの観点から言って、それでは弱い。ここは一つ、こっちからもかましてやるのが妥当、無二の対応、あれで行こう、と容子は思い至り、予てより小中学生相手を想定して千度は練習して来た台詞をここで試してみることにした。つまり、

「あんたもぶち込まれたいのかい?」

 が、容子がこれを言い切るのを待たずに、犬女は、

「ぶち込まっていいの?」

 と目をいっぱいに見開いて、ほとんど叫ぶように返したのである。容子がこれに応える間もなく、更に犬女は、

「やったぁ!」

 と謎の快哉を叫び、驚くほど軽い身のこなしで跳躍、荷台のゴミとガラクタの上に飛び乗った。 

 自動詞――、

 他動詞――、反語表現とは――、自動詞――、という概念の欠片が容子の脳裏をすさまじい速度で旋回して遠心力のためにいつまでもまとまらない。それから、勝手に乗らないでよ、友達じゃないんだから、降りなさいよ、ぶち込まれたいのかって聞いたんだ、ぶち込まれたくはないだろうという意味で、などのきれぎれの言葉だけが浮かんでは消えていった。結局、何の言葉も発することはなかった。ちょこんと荷台にぶち込まりあぐらをかいた白装束の女の顔をただ、見つめる。その顔は子どものような笑顔で、何の衒いもなく、

「いいよ? 行こう? ね? 行こう?」

 裏も表もなく嬉しそうな顔だったから、なんだ、悪い癖、また考えすぎだった、いい子なのね、きっと。

「落ちないようにね。あと、その辺にムヒもタイガーバームもあるから」

 よく見ると犬女の顔、特にまぶた、首、それから手や、足首、いったいどこでどんな虫に刺されたらこんなになるのだろうというような、大層な腫れ方をしているのだった。しかし、犬女はこれに応えず、

「ジプシーみたい!」

 

 二〇二三年春のこととされている。このようにして犬女は荷台に乗り、以降、ペアでの目撃情報が急増するのは周知の通り。

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