第5話 れもニキ②

 そんなことがあった翌日の夜に、抄造はファーストフード店に立ち寄った。混んでいて、注文カウンターには十人ほどの列ができていた。抄造の前には女が並んでいた。膝の辺りで脚を左右クロスさせている。くるぶしまでの短い靴下を履いている。靴下の色は黄色だった。靴は空色だった。交差した膝と膝裏をすり合わせて、微かに音を立てていた。その剝き身の輝きに、抄造は例の虫を滑らせて時間を潰していたのだが、いよいよ次は自分の番だという時になって、女が、何やら柔らかそうなものを落とした。ブルーや赤やピンクといった色合いの、楽しげな虹のようなタオルは注文カウンターに一歩踏み出そうとしていた抄造の目の前・足もとにふがいなく落ちたのである。 女はそのことには気付かずに、抄造のわきを通り過ぎて行こうとする。――その時、どこからか、

 おおおぉぉぉ、

 やわらかな、それでいて鋭いような、笛の音が、

 聞こえてきた。

 それは抄造の喉が鳴らす音だった。

 おおおぉぉぉ――

 ――おおおぉぉぉ

 どう声をかけていいか、分からなかったのである。結局抄造の後ろに並んでいた大学生かフリーターかホストか知らぬが少なくとも力士ではなさそうな一団の一人の男が、

「落としましたよ」

 と女に声をかけ、女が気付いて戻って来ようとする。抄造は迷ったが、あからさまに自分の足もとに落ちているので、これを踏み越えてカウンターへ向かうわけにも行かず、かと言って棒立ちでいるわけにも行かず、膝を曲げた。震える指で、虹色のタオルを拾って、女の方へ差し出した。ちらっとその女の顔を確認した。意に反して知性的なまなざしの女だった。軽蔑されたいと思った。女はタオルを指先で――中指と親指で、つまりキツネのなりかけで、端っこの方をつまみ、微かにこく、と、頭だけ下げて、連れの女の方へ小走りで寄って行った。まるで汚い物でも取るような、指の形だった。あれは汚いタオルだったのだろうか。それとも床に落ちたから汚くなっているということだったのだろうか。

 笛の音が耳にこびりついてその夜は眠ることができなかった。


その二日後の夜に、母親からの着信。出ると、

――ちょっと前にメールしたんだけど

「ああ、後で返そうと思って忘れてた」

――ちゃんと勉強してるの?

「うん。してるよ」

――どれくらいしてるの

「どれくらいってまあ。10時間とか」

――そんなにしてんの

「ああ」

――今年はうかりそうなの

「んんん。まあやってみないと。筆記のテーマとかにもよるし」

――山が当たらなかったらまただめなん?

「いや、山っていうか。どうしても得意不得意はあるから」

――今年もだめだったらどうするつもりしてるの

「働くよ」

――何して働くつもりしてるの

「何してって。(今言われても)どうせ糞みたいな仕事だよ」

――糞みたいな仕事って。どんな仕事が糞みたいなのよ。糞みたいな仕事なんてないでしょ

「給料の低い仕事はみんな糞なんだよ」

――まあ・・・・・・うかるかも知れんしね。うん、大丈夫だよ。

「今年だめだったら諦める」

――去年もそう言ってたじゃない

「・・・・・・。だからそれくらいの覚悟でやるって意味だよ」

――まあ今言っても仕方ないね。うかるしかないんだから、頑張ってね

「はい」

――あと、お父さん、またちょっと、手術することになったから。でも面会とかできないらしいし、あんたも忙しいだろうから、帰ってこなくていいから。お父さんもそうせえって言ってるから。

「どこの手術」

――今度は肺やと。まあ、手術自体はなんていうてたかな、98%成功するような手術なんだって。ああそんなに高いなら安心ですねってお母さん言ったら先生が、いや、2%で失敗というのは、僕らからしたら結構難しい手術ですよって言われて。そんなもんなんかなと思ったけど。

「まあ毎日一回その手術したら二ヶ月に一回以上のペースで失敗するってことでしょ」

――そうゆうたらそうやけど。こっちからしたら98%なら絶対成功してもらわんと。

「まあね」

――ほんなら、もし何かあったら連絡するから、あんたは勉強に集中してね

「うん」

――それじゃあね。頑張ってね

「はい。じゃあ」

 抄造の母は生まれも育ちも関西だが、結婚するとともに関東に移り住んだので、関西弁のような、関東弁のような喋り方をする。そのどっちつかずの言葉が抄造の内心の母語になっている。〇〇じゃん、と、関西の抑揚で言うのである。だから抄造は他人と母語で話をすることはない。思ったことを毎度関東のイントネーションに変換してから喋るのである。

 

 お父さんが来世に行きかけている。お父さんは今世で一通りのことをし終えているのだし、今は自分のことじゃん、明日からまた勉強に集中しなきゃじゃん。 

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