14_ピクニックのイズミさん1
暑さがほんの少しだけ和らいだ十月の深夜、僕はイズミさんとお酒を飲んでいた。
「それにしても、すごい量ですね」
「だろ? 子供の頃の夢が実現した気にならないかい?」
僕たちの目の前にはタコさんウインナーが山盛りになっていた。
「いいかい、青年。よく覚えておきたまえ。タコさんウインナーは赤いウインナーを使って、必ず脚は六本にするという決まりがあるのだよ。日本タコさんウインナー協会の公式ガイドブックにも載っていることだ」
箸で一匹
「でもイズミさん。それじゃあ、タコにならないんじゃないですか? タコなら脚は八本じゃないと」
「ノンノン」
イズミさんは立てた人差し指を振って見せた。
「いいかい、青年。正しいということがいつでも正確であるとは限らないのだよ。時に正しいということは間違っていない、というだけの無味乾燥なことしか意味しない。正しくなくとも正確であれ。イズミ家の家訓だよ」
「正しいと正確って、違うことなんですか?」
僕は小皿に醤油を垂らして、タコさんウインナーをそれにつけてから口にした。
「大違いだとも。ま、あくまで私の中ではという注釈付きだけれどね」
イズミさんはタコさんウインナーにもウスターソースをかけていた。
「例えばそう、メロンソーダだ」
「メロンソーダ?」
「そうとも。知っているだろう? あの緑の炭酸。あれを人はメロンソーダと呼ぶね。正確じゃないか。緑で甘くて炭酸。まさにベストな呼称だよ。しかし、同時にその呼称は正しいとはいえないね。多くの場合、メロンは実際に使われていないからね。メロンパンについても同様だ。メロンとは正しさと正確さの間を行き来する存在なのかもしれないね」
僕はジンを飲みながらイズミさんのいう正しいと正確の違いについて、何か分かったような、もう一歩、何かが分からないような複雑な心境だった。
「まあ、とにかく、タコさんウインナーの脚は六本が正確なのさ。大体、八本足にすると足が細くなって、切れ目を入れづらい。量産が面倒じゃないか」
こちらがイズミさんの本音かもしれないと僕は直感した。
「そんなことより。どうだい、青年。最近は」
イズミさんは机に肘をつきながら僕の顔を覗き込んだ。網戸から吹き込んできた風に、仄かに秋の香りが混ざっているようにも思えた。
「どうって、いつもどおりですよ」
「退屈そうに言うにぇ」
「まあ」
イズミさんはタコさんウインナーを三匹食べて、ハイボールを飲み干した。
「退屈ということは穏やかに時が流れているということだ。上々じゃないか」
「ですかねえ」
イズミさんはハイボールのおかわりを作りながら鼻歌を歌っていた。
「しかし、何か少し、いつもと違うことを心が求めている、と。そういうことかね、青年?」
「多分、そうですね。イズミさん。もしよければ、何かしません?」
今日の僕は少しだけ強気だった。
「いいじゃないか。お誘い、ありがとう」
「まだ、何するか考えてないんですけどね」
「それは今からお姉さんが考えるさ」
イズミさんは立ちあがってキッチンの戸棚からタバスコを持ってきて、小皿のケチャップに大量に混ぜていた。その赤い海に赤いタコさんウインナーを浸して食べ、イズミさんは満足げに頷いた。
「素晴らしいね。タバスコとケチャップの組み合わせは最高だよ。青年も試してみるといい」
言われるままに試してみるとキレのある酸味と程よいトウガラシの香りがした。
「あ、美味しいですね、これ」
「チキンライスを作る時にも応用できるわけだ。以前、おばけ猫オムライスを作った時にも実践すればよかったな。んー」
小さく唸ったイズミさんはタバスコケチャップにタコさんウインナーを浸したまま、動かなくなってしまった。その瞳はタコさんウインナーを捉えているようにも、ここではない何処か別の場所を見ているようでもあった。まつげの長い彼女の、何を考えているのかよく分からない、真剣な表情が美しく、僕は見惚れていた。小さな声で独り言をつぶやいていたイズミさんはやがて顔を上げてケチャップまみれのタコさんウインナーを口にした。
「よし、決めたよ、青年」
僕は想定外の角度からの提案を期待してイズミさんの言葉を待った。
「ピクニックだ」
「ピクニック?」
予想どおり、予想外だった。
「そう。十月といえば、もう充分秋だと言っていい。そして秋といえば行楽シーズンだ。ピクニックをするには最高だと思わないかい」
「何処に行くんです? 山とかですか?」
「場所は何処だっていいさ。適当に電車の切符を買って、よく知らない駅で降りて、なんとなく歩いて、自然があるところで一服する。派手じゃないけれど、なかなか面白そうだと思わないかい」
イズミさんとの外出であれば、場所を問わず、有意義なものになると知っていた僕は大きく頷いた。
「では、来週にでも行こうか。楽しみにしていてくれたまえよ、青年」
僕は一週間後に灯った明りを感じながら、お酒を飲んだ。すっかり冷めてしまった筈のタコさんウインナーがやけに美味しく感じた。
翌週、僕たちは電車に乗って隣の市までやってきていた。僕はイズミさんが背負っている見慣れないリュックの中に何が入っているのだろうと気になっていた。駅から出て
「見たまえ、青年」
目を輝かせるイズミさんの指さす先には立ち食いそばの店があった。
「あ、そばや」
「そうともそうとも。時刻は昼過ぎ、小腹が空いた頃だ。ちょうどいい、
そば屋の
「青年、覚えておきたまえ。私たちは今からそば屋に入るところだ」
少し変なことを言うイズミさんの瞳には、少し深いことを言う時の色が
「いらっしゃいませ。お冷はセルフサービスです」
イズミさんは僕の分の水も注いでくれると、天ぷらそばを注文した。
「青年はなんにするんだい」
「じゃあ、きつねそばで」
「はーい」
「なかなかいい選択じゃないか」
どういうわけか、イズミさんは親指を立てた。
「いい選択って?」
「あそこを見たまえ」
イズミさんは壁のメニューを指した。シンプルなかけそばから天ぷらそば、きつねそばだけでなくざるそばやカレーそば、かつ丼まで豊富なメニューが並んでいた。
「イズミ家の作法その十六。立ち食いそばを食す時にはシンプルであれ」
「シンプル?」
「そう。ベストはかけそばだけれど、少し寂しいから私はいつも天ぷらそばさ。たまに気が向けばきつねそばも少々。とにかく、温かいそばに何かトッピングがひとつ。これが我が家の作法なのさ」
「お、来た来た」
イズミさんは天ぷらを一度つゆに沈めると、近くに合った七味唐辛子の容器を手にしてそばの上に振り始めた。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三……。
そこから先、僕は数えるのを止めた。イズミさんが満足げに頷いてそばをすすり始めた頃にはトッピングの天ぷらがすっかり赤く染まっていた。
「ほい、青年も使うかい?」
「ああ、はい」
僕はそれを五回だけ振ってそばを食べ始めた。
僕がそばを食べ終えた頃、イズミさんはつゆまで飲み切って、僕の分と合わせてお会計をしてくれた。僕はイズミさんの胃が唐辛子に痛められはしないかと心配になりながら店を出た。
「ありがとうございました」
「いやいや、いいのさ」
「大丈夫でした? あんなに唐辛子かけて」
「なんの。私の胃はあれぐらいじゃあ、なんともないさ。そばに唐辛子はつきものだよ、青年。お砂場遊びと猫のウンチくらいセットになっているからね」
美人からあまり上品でない言葉が飛びだした。
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