第8話 ただいま
シグレの咆哮が、世界を裂いた。
黒き翼が広がり、瘴気の嵐が吹き荒れる。
膝をついたまま傷を庇い、サイリを睨み据える。
その双眸はなお深淵のまま。だが、たしかに揺らいでいた。
サイリの身体は、既に限界に近かった。
膝は砕けかけ、肩は震え、握る手は裂けて血に濡れていた。
それでも――止まるわけにはいかない。
「……これが、俺のすべてだ」
燃え尽きる寸前の意志が、ただの一度、刃に力を宿す。
ハクリュウが淡く白い光を帯びる。
鍔が脈動し、祝福の紋様が強く光る。
サイリは最後の一歩を踏み込んだ。
刹那、世界が静止する。
時間が凍り、空気が凪ぎ、音が失われる。
その一瞬にすべてを懸けて――
サイリは、渾身の力でハクリュウを振るった。
「……これで、終わらせるっ!!」
白銀の刃が、神話の傷をなぞるように閃いた。
鋼と意志と祝福が、ひとつの軌道を描いて、
その黒き体を貫いた。
シグレが、空に向かって咆哮する。
どこか哀しげで、しかしどこか満足げな最後のひと鳴き。
そして……力なく崩れ落ちた。
静寂が、世界を包んだ。
かつて世界を染めた瘴気の核が、静かにその終わりを迎えていた。
その身を貫いたのは、たった一振りの刃。
神話の古傷をなぞるように振るわれた、意志の一撃だった。
サイリは膝をついていた。
ハクリュウを杖にし、浅く息を吐く。
その胸に残るのは、勝利の実感ではなく、ただ――終わったという静けさ。
世界は、沈黙していた。
風は止まり、森の奥から響いていた瘴気の唸りも消えている。
空間そのものが、張り詰めた糸のように静まり返っていた。
やがて、力なく地に突き立てられたハクリュウの柄が、ひび割れた。
「……!」
細かな音を立て、崩れていく柄。
中から現れたのは、茎に刻まれた龍の紋様。
まるで、封じられていたものが目覚めるように、
龍は光となって天に昇っていく。
(……この刃も、ずっと戦ってくれていたんだな)
イワナリの言葉が蘇る。
――こいつは、ただの武器じゃねぇ。お前が歩いてきた道そのものだ。
サイリはその刃を見つめ、目を閉じる。
胸の奥に、確かに灯るものがあった。
(これは俺一人の力じゃない。……みんなが、ここまで連れてきてくれた)
ミオリの制御装置、ユウヤの術式、ノリカの導き、イワナリの鍛造、
そして仲間たちの支え――
そのすべてが、この刃に刻まれていた。
「……終わったんだな」
呟いた声は、森に吸い込まれた。
そしてその森が――静かに、変わり始めていた。
枝に付着していた黒い霧が、ほどけるように消えていく。
瘴気の臭いが、風に洗われるように薄らいでいく。
夜のように曇っていた空が、ゆっくりと白み始めていた。
遠くで、木々をかき分ける音がした。
「サイリ! 無事かっ!」
ロクの声だ。
その後ろから、フィーネの気配も近づいてくる。
瘴気の濃度は確実に減っていた。
それだけでも、ここでの戦いが意味を持ったことがわかる。
「よく……来てくれたな」
声はかすれていた。
それでも、届いたようだった。
ロクが駆け寄り、サイリの肩を支える。
フィーネがそっと、癒しの術を重ねる。
その光が、酷使された筋肉を優しく包み込む。
「お前の……ほんとに、ボロボロだな」
「今にもちぎれそうだよ」
フィーネの言葉に、サイリは小さく笑った。
肩の力を抜き、深く息を吸う。
彼女の癒しの温もりと、ロクの手の力強さが、
確かに「帰ってきた」という実感を与えてくれていた。
---
数日後──
ギルドからの勝利の報を受けた世界は、ささやかな祝いの声を上げていた。
カミシロの街も例外ではなく、みな賑やかに宴を開いていた。
だが、サイリが目指したのはその喧騒ではなかった。
文献所の裏庭。
静かで、小さな木陰の中。
そこに、サナはいた。
風に揺れる髪。
膝に本を乗せたまま、こちらを見てページをめくる手が止まっている。
「……」
サイリは、一言もなく、その姿を見つめていた。
どれだけの時間が経ったか――ようやく、サナが顔を上げた。
そして、柔らかく笑った。
「……おかえり」
たった一言。
でも、それだけで、胸の奥に積もっていたものがほどけていく。
サイリは、ゆっくりと頷いた。
「……ただいま」
その言葉は、ようやく届いた約束の答えだった。
ハクリュウは今も彼の背にある。
けれど、そこに宿る重みはもう、孤独ではなかった。
空を見上げれば、雲ひとつない青が広がっていた。
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