第20話 試練の先に待っていたもの
「百合、コーヒー入ったよ。はら、起きろ!」
雄一は、早朝ジョギングから戻り、朝食を用意していた。
百合は、昨夜の甘美な疲労が、抜けきれていなかった。
「あなた〜、まだ7時じゃない」
「いいから起きろ。時間がもったいない」
百合は、シブシブ起きて、シャワーを浴び、食卓についた。
「なあ、百合。今日中に帰ろう」
「え?まだ、あと4日もあるじゃない」
「やりたいこと、調べたいこと、会いたい人、やらなきゃいけないこと、沢山あるんだ。こうしちゃいられない!」
「はい、はい、わかりました。ダンナさま」
雄一と百合は、別荘の庭から見渡せる、広大な海をながめていた。
「百合、苦労させるかも知れないが、いいか?僕はもう逃げない。必ず君を守る」
「ええ、あなたと一緒にいられるなら、どんな苦労だって怖くないわ」
ふたりは、午後には網代をでて、帰路についた。帰宅してからの、雄一の動きは速かった。
残りの休暇を使って、これまで作ってきた人脈に片っ端からアポをとり、フルに会いにいった。
百合は、住んでいるマンションを仲介してくれた、日松証券不動産部の高野課長に連絡し、
雄一のマンションの査定と売却、事務所の候補地の相談をした。
雄一は、8月末で勤務する投資会社を退職することが決まった。後輩の斉藤と樋口も、順次退職する段取りになった。
「今夜は、遅くなる。新堂さんと飲んでくる」
「シンドウさん?あの新堂さん?」
「あの新堂さんだ」
「いつから、そんな仲になったの?」
「セカンドワルツからだ」
「男って、わっかんな〜い!」
「昨日の敵は今日の友って言うだろ!」
9月に入った日曜日、後輩の斉藤夫妻と樋口夫妻を招いて、打ち合わせをかねた食事会をした。
今日のメインは、斉藤夫人弥生、樋口夫人はるかと、百合の顔あわせである。男性陣は、今後の展望や戦略を熱く語って、早くも出来上がってしまっていた。
「桜井さん、よく決心したわね。斉藤もこのところ、早く辞めたいってグチってたの」
と、斉藤弥生。
「うちもよ、海外赴任にでもなったら、別居になっちゃうわ。私、仕事辞める気ないし」
と、樋口夫人はるか。
樋口夫妻は、3才になるひとみちゃんを連れてきた。百合は、ひとみちゃんの為に、マドレーヌを焼いた。
「私は、公務員だから安定してるの。だから、樋口に冒険するんだったら、今しかないわよって言ったの」
「斉藤はね、桜井さんがシンガポール行っちゃったら、時期支店長だし、当分帰ってこれないだろうって、あきらめてたみたい」
斉藤弥生は、動物病院のドクターだった。
「うちも大丈夫よ。まだ子どもいないし、亭主だけなら、食べていける」
「弥生さん、はるかさん、ありがとう。安心したわ。おふたりの協力がえられなかったら、どうしようかと思ってたの」
百合は、ひとみちゃんをひざに抱き、すこしだけの母の気分を、味わった。
雄一は、早急に事業計画書を作り、斉藤、樋口と共に、有休消化を使って、資金集めに奔走した。
ノーアック夫妻に連絡したのは、言うまでもない。新堂裕作は、株式会社新堂ホールディングスとして、出資を約束してくれた。
また、日松証券不動産部高野から、話をきいた、松井優斗から雄一に会いたいと連絡が来ていた。松井優斗は、日松証券の社長に就任していた。
もうひとつ、予期せぬところから話が飛びこんできた。
山村楽器本社において、百合がうけもつ都内16店舗のうち、採算の合わない5店舗の収益改善がみられるようになっていた。
百合は、目黒店と同様の資料を、雄一に作成してもらい、指導にあたっていた。
肝心の目黒店土屋店長は、自分をコネ入社させてくれた某取締役から、強い叱責をうけ、あやうくクビになるところを、百合に助けられた。
その話は、山村会長の耳にも入り、百合は会長から呼び出しをうけた。
「江崎先生、厄介な問題をあなたに押し付けて、申し訳なかったです」
と、某取締役。
「あの資料、私も拝見しました。マーケティングの素人にもわかりやすくまとまっていましたね」
と、企画営業部長。
百合は、バレないうちに、話をした。
「あの実は、あの資料は、わたくしの夫が作ったもので、わたくしは夫からレクチャーをうけて、そのまま店長さんにお伝えしただけなのです」
「ほう、そうですか。江崎先生のご主人はその方面のプロですかな?」
と、山村会長。
「はい、会計の専門家ではありませんが、金融アナリストです」
「江崎先生のご主人なら、お会いしたいですな」
「社内で講演会をやっていただいたら、どうでしょうか」
話は、トントン拍子に進み、雄一は、山村楽器本社で「世界情勢と日本経済の展望」についての講演会を行った。
山村会長は、雄一の作る会社をバックアップしてくれると約束した。
雄一のマンションは、売却まで開設準備室として機能し、売却と同時に、品川区大崎にオフィスをかまえ、「株式会社ユウインベストメントパートナーズ」を設立した。
あと2名、雄一の後輩が合流することになり、5名での船出となった。
平成音大の後期授業が始まっていた。しかし、百合は体調を崩して、休んでいた。百合の代わりは、あのスティーブが務めていた。
百合は、立っていられないくらいのめまいに襲われていた。貧血と低血圧だった。食欲はなく、水しかうけつけない状態。ひどい吐き気。
百合は、雄一に気づかれないように、気丈にふるまっていたが。
雄一が帰宅すると、百合はピアノ室で倒れていた。雄一は、百合をベッドに運んだ。
「百合、大丈夫か。あす病院に行こう」
「病院には、もう行ったわ。大丈夫よ。もう少しで落ち着くわ」
「忙しくてゴメンな。君とゆっくり話す時間もなかったな」
「あなた」
「なんだ、どうした?」
「私、妊娠してるの。もうすぐ14週、4か月に入ったわ」
「なんで、早く言わない!」
「あなたが、大事なときに、なんて間が悪いのかしら」
「百合、奇跡だ。奇跡がおきたんだ。なあ、そうだろ」
授かるはずもない自分の子どもが、今、妻のお腹の中でそだっている。雄一は、もう二度と、百合に流産のつらい思いをさせたくはなかった。
「おふくろ、一生に一度のお願いだ。百合を助けてくれ」
眠りから覚めた百合の顔を、母昌子は、愛おしく見つめていた。
「おふくろさん」
「百合、赤ちゃん産まれるまで、私がつきっきりで世話するから、安心しな」
昌子は、雄一から電話をもらった次の日には、病院を退職して、百合のもとに駆けつけた。
「おふくろさん、なんか変なんです。まえの時より、つわりがひどいし、貧血もあるし、お腹はってるし。それに、下腹にシコリみたいなのがあるの」
昌子は、百合のお腹をさすった。
「なんか悪い病気かしら。私、産みたい。今度は、絶対産みたい」
「百合、あした東洋大学病院行こう。私の友達が、そこで婦長やってるから」
「はい、お願いします」
「百合、長年の看護師のカンだけどね。ひょっとして、ひょっとするかも」
昌子の看護師としてのアンテナに、なにかが引っかかったようだ。
翌日、百合は昌子に付き添われて、東洋大学病院で検査をうけた。
「百合、やっぱりそうだと思った。産まれてこれなかった子どもの分まで、神さまはちゃんと授けてくれた。ありがたいね」
「はい、信じられません。ツインだなんて」
雄一は、身の引き締まる思いがした。百合との出逢いから奇跡が始まり、究極はあきらめていた子宝が、双子だった。
「これからは、すべての責任は自分が背負っていく。自分の家族、会社の社員たち、社員の家族も、僕が守る」
雄一は、誓った。もう、決して逃げないと。
高齢出産に双子、百合の体の負担は相当なハードなものだった。百合のお腹は、見る間に大きくなってゆく。妊娠中毒症にかかっていた。
平成音大は、いったん退職の形をとった。橋口教授は、いつでも復帰できるように配慮してくれた。
姑昌子は、かいがいしく百合の世話をした。昌子にとって百合は、嫁というより自分の娘のような感覚だった。
百合も、昌子に遠慮なく甘えた。10才で産みの母を亡くした百合には、昌子は母親そのものだった。
「ねえ、おふくろさん。江崎の母がおふくろさんに会いたいって。どうしましょうか」
「ここへ来てもらったら」
「でも、私、江崎のお母さま、苦手なの。なんだかトラウマになっちゃって」
「百合、それはまちがってる。百合ちゃんに厳しくしたのはね、百合ちゃんの為を思ってのことだったのよ」
「そうでしょうか?」
「百合、崇子さんの気持ちを考えてごらん。自分が産んだ娘じゃない百合を、名門の江崎家の娘に育てなきゃならなかった。腹の立つことだってあったはずだ」
「ええ、そうかも知れません」
数日後、江崎家のお母さま、崇子が兄嫁みさ子と、桜井家を訪れた。
「昌子さん、どうか百合をお願いいたします。百合を助けてやってください」
崇子は、昌子に頭を下げて頼んだ。
「百合ちゃん、困ったことがあったら、なんでも言って。徳明も心配してるわ」
雄一と義兄江崎徳明は、新堂裕作を交えて、しばしば会っていた。徳明は、義弟の起業を全面的に応援したいと申しでた。
しばらくすると、お腹の赤ちゃんは、男女の双子だと判明した。百合は、大事をとって、早めに入院した。
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