四十二歳、今日も一人で異世界満喫 ―スキルツリー職人ミナトの気ままなスローライフ―

mynameis愛

第一章「谷に降り立つ現実主義者」

 気づいたとき、湊士は石橋の上にいた。いや、正確には“石橋の上に寝そべっていた”というべきか。冷たい石畳が背中にじんわりと沁みる。目を開けると、茜に染まる空と、低く飛ぶ鳥の影が視界を横切った。春の風がやわらかく頬をなでるが、やけに静かだった。車の音も、人の声も、まるでない。

 起き上がりながら、湊士は額に手を当てて深く息をつく。「……寝不足で、職場で倒れたか?」ぼそりと独りごちた。いや、こんな静寂と自然音に満ちた場所、東京のどこにもない。

 視界に映る風景はあまりに牧歌的で、どこかおとぎ話の中に紛れ込んだようだった。目の前に広がるのは、黄緑の草がそよぐ緩やかな丘と、谷底にぽつぽつと点在する家々。そして、古ぼけた木の荷馬車が、一台、傾いたまま橋のたもとに停まっている。

 その荷馬車の上で、何かがごそごそと動いた。思わずそちらに目を凝らすと、次の瞬間、けたたましい悲鳴とともに一人の少女が転げ落ちた。

「いってぇえええええええええええ!!」

 彼女は見事な受け身で地面に倒れ込み、すぐさま起き上がってあたりをきょろきょろ見渡した。年の頃は十七、八。ボサボサの金髪に、革のベスト、半ズボン。見るからに「どこかの冒険者」という雰囲気だ。

「……痛っ、またやっちまった。でも、まあ、見つかってないっしょ!」

 どうやら誰かから逃げていたらしい。と、その視線が、じっとこちらを見ていた湊士とばっちり合う。

「……あ」

「……あ」

 一瞬の静寂のあと、少女が腰に差していた短剣に手を伸ばした。

「ちょ、ちょっと待った!」とっさに両手を上げた湊士が先手を打つ。「俺はただの通りすがりだ。いや、正確には“異世界に転移して状況がよくわからない日本の公務員”だ」

「え、なにその属性!? っていうかマジで転移者!?」少女の目がキラキラと輝いた。「じゃああんた、魔王とか倒す系!? チートスキル持ってたりする!? え、もしかしてこの橋で勇者の称号を受け取るとか!?」

「いや、全然。むしろそっちの“隠れてる人”に興味あるんだけど」

「えっ、今それ聞いちゃう!? いやまあ、話すと長いんだけどさ、あたしはハルカ。ちょっとした事情で、あの荷馬車、借りてた」

 湊士は内心で「いや借りるっていうか、もうそれは占拠では」とツッコみながらも、荷馬車の後部をちらりと見た。やはり中はめちゃくちゃだった。干し肉やパンくず、毛布やなぜか折れた剣まで散乱している。

「で? 君は何から逃げてるのか、聞いてもいい?」

「うーん……ギルドの人かな? ちょっと、酒場で暴れたら、出禁食らってさ……」

「それ“ちょっと”じゃないね」

 呆れを含んだ湊士の声に、ハルカが肩をすくめて苦笑する。彼女のその軽さと、よくわからないタフさに、湊士はふと、自分の過去を思い出していた。連日、書類の山とにらめっこして、数字と納期とに心を削られていた日々。すべての感情が、現実的で効率的でなければならないと信じていた、自分。

「……ま、いいか。どうせ、ここがどこかもわからないし、君みたいなのが一人いるほうが、事情を聞くには都合がいい」

「おっけ! じゃ、ついでにさ、その服とその髪とその雰囲気、すごい浮いてるから、ちょっとこっち来て!」ハルカはぐいっと湊士の袖を引いた。

「え、どこ行くつもりなの?」

「“スミルの谷”って集落! あたしの秘密の避難場所! あんたもそっちで新生活始めなよ。ね、異世界生活、楽しもうぜ!」

 少女の言葉が、どこか脳天を軽く殴るように響いた。

 異世界で、自由気ままに生きる――

 それは、心のどこかでずっと願っていた形だったのかもしれない。

 湊士は、一度だけ深く息をついて空を仰ぎ見た。濁りひとつない空色。広がる景色は、かつての“帰宅途中の駅のホーム”とはまるで違う。

「……わかった。少し、付き合ってみるよ。その谷とやらに」

「やった! じゃ、行こうぜ!」

 そうして湊士は、異世界生活の最初の一歩を、“訳あり娘”ハルカとともに踏み出すことになったのだった。




 谷へ向かう道は、思っていた以上に“素朴”だった。草を踏みしめるたび、乾いた音がサクサクと響く。かすかに花の香りを含んだ風が吹き抜けて、遠くでは牛の鳴き声と鳥のさえずりが混ざっていた。こんな自然音だけの道を歩くのは、いつ以来だろうか。東京の喧騒の中では聞こえなかった自分の足音が、ここではちゃんと存在感を持って響いていた。

「しかし、結構歩くんだな」

「え、これで文句言う? あたしなんてこの前、一日三回往復したんだぜ。村まで片道一時間、往復三時間、三往復で九時間歩いた!」

「……なんで?」

「寝床にマット忘れてさ」

「……何往復もするより、途中で諦めるほうが自然だと思うよ」

「それじゃ冒険者としては“負け”なんだよ!」

 どこがどう冒険なのか突っ込みたい気持ちを飲み込み、湊士は口をつぐんだ。こういう時、言葉で論破しても意味がない。そう、今はそういう相手なのだ。

 ようやく丘を越えたとき、谷全体が見渡せる場所に出た。そこには、想像以上に整った小さな集落が広がっていた。木造の家屋が十数軒、中央には井戸と小さな市場らしき広場、そしてところどころに家畜小屋と畑。地形に合わせてなだらかに並ぶ家々の様子に、湊士はどこか安心感を覚えた。完璧ではないが、無理もしていない、現実的な生活がそこにあった。

「……悪くないな。いや、むしろ、いい」

「でしょ? ここ、あたしのお気に入りの避難所なんだー。酒場もねぇし、ギルドも離れてるし、何より“怒られる相手がいない”!」

「……お前、そういう理由で選んだのか」

 だが、湊士の目には別の価値が見えていた。例えば、土地の起伏を活かした家屋配置、主要動線の簡潔さ、生活水源と集会所の近接。これはたまたまじゃない、誰かがちゃんと考えた村だ。

「……住むには、ちょうどいいな」

 思わず本音が漏れた。

「え、住むの!? マジで!? 転移者ってもっとドカーンと魔王倒してさ、王女と結婚とか……」

「ごめん、そのテンプレ、俺の人生には多分来ない」

「いやあ、でもさ……うわ、まって、やばっ」

 突然、ハルカが道の脇に飛び退いた。直後、彼女がさっきまで立っていた場所に、ボトン、と何かが落ちた。見ると、それは干し肉の包みだった。

「……あー、またか。スミルの名物、“空から食材”。犯人はあいつだな」

 指差す先には、一本の木に吊るされたロープと、風でゆらゆら揺れている木箱があった。まるでブランコのようなそれは、風向きによって食材が「落ちてくる」仕組みらしい。実際、近くの地面には包みの裂けた干し草やら、半分だけのキャベツが転がっている。

「……どういうシステムだ、これは」

「村のジジイが“野生動物にやられない冷蔵庫”として考案したんだよ。で、食べたい人が自由に落として持ってくシステム!」

「いや、それ、冷蔵庫じゃなくて“強制キャッチ&イート”じゃないか……」

 湊士は額を押さえながらも、ふと、口角が上がるのを止められなかった。こんな不便で奇妙な仕組みにも、どこか温もりと笑いがある。完璧とは真逆にあるこの暮らしの中に、自分が求めていた“余白”があるのかもしれない。

「なー、ミナトー」

「なんだその呼び方」

「ミナト士さんって長いし、あたしはもう決めたから! あんた、今日から“風車の親父”って感じのポジション!」

「初対面であだ名と役職セット……?」

 だが、その口ぶりの軽さも、湊士の中で何かを柔らかく溶かしていった。

「とりあえず、案内してくれると助かる」

「おーけー! じゃ、まずはあたしの寝床、兼・あんたの新しい拠点をお披露目するよ!」

 こうして、湊士は異世界での“おひとりさま生活”を、この奇妙で、どこか懐かしい集落から始めることになった。

 そして、このスミルの谷が、思いもよらぬ笑いと発見と、ときどき金欠にまみれた、彼の第二の人生の舞台となることになるのだった。

 ――第一章 終

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