第2話 英雄の子孫と皇国の歩み
『三百年前、名君イエヤス・トクガワを始祖とするエド将軍政権は多くの災いに頭を悩ませてきた。その中で最も頭を悩ませたのが、病であった』
日本史を研究するオランダの学者は、論文の中でそう記述した。江戸幕府成立から凡そ四〇年近く経った頃、日本全国を恐ろしい感染症が襲った。全身を赤く染め、高熱と炎症でまるで火炙りにされる様な感覚を味わいながら死ぬ『火炙り病』は天草島原で起きた反乱を長期化させ、やがては国内の男女比率を大きく狂わせた。
征夷大将軍の職をも女性が担う、女性中心の社会が百年も続き、力仕事で足りない人手は幕府がオランダやイギリスより奴隷として購入した人々や、祖国で居場所を失った移住者たちによって補完された。やがて八代将軍徳川吉宗の政治改革で、西洋医学を主軸とした医療が導入される様になり、『火炙り病』に対する治療法が確立する様になると、九代目からは男が将軍の座に就く様になった。
そして幕末の動乱と明治維新を迎えた激動の時代。戊辰戦争と西南戦争、そして李氏朝鮮との国境紛争は欧州諸国の兵器実験場と化した。例えば旧幕府軍は一門のガトリング砲で新政府軍の侵攻を食い止め、函館では装甲艦同士の戦闘が起こり、西南戦争では熊本城に配置されたクルップ式野砲が薩摩隼人の侍たちを吹き飛ばしていった。中でもイギリスとフランスは軍事顧問団として百人超の将兵を送り込んでおり、その中にはイギリス陸軍軍人として日本の地を踏んだミシェル・ルイ・ナポレオン・ボナパルトの姿もあった。
明治時代を迎え、政府は富国強兵に努めた。ミシェル・ボナパルトは陸軍少佐として陸軍の育成に関与し、日清戦争ではガトリング砲や牽引式野砲を装備した竜騎兵部隊を組織。波となって押し寄せてくる清国兵をガトリング砲と野砲で薙ぎ払い、押し返したのちに騎兵突撃ですり潰す打撃戦で軍功を挙げた。その戦いぶりは当時の陸軍司令官だった大山巌をして『英雄ナポレオンの軍才は、百年後の子孫でも衰えを知らず』と評された。
しかし陸軍で名を挙げた父に対し、息子たちの選んだ道はまるで違った。長男フィリップ・ボナパルトは政治家を目指し、大正時代の政治改革にてその名を馳せた。次いで次男のタテキ・ボナパルトは、かつての西南戦争にて、熊本城籠城戦で活躍した
そして一九〇五年、日本はロシア帝国との関係が悪化し、戦争が勃発。日本は六隻の戦艦を基幹とした連合艦隊で迎え撃ち、ロシア海軍太平洋艦隊の撃滅を目論んだ。タテキは士官候補生として戦艦「三笠」に乗り込み、戦争に参加。対馬沖で起きたバルチック艦隊との海戦では東郷平八郎海軍大将の采配を目の当たりにし、輝かしい勝利を目撃していた。
だが、全てが快勝だったわけではない。例えばバルチック艦隊は補給船の数を倍にしており、最新鋭のボロジノ級戦艦は旧式戦艦七隻を含む大部隊を連合艦隊主力にぶつける形で太平洋側を北上。間宮海峡を抜ける形でウラジオストックに到達し、戦略的目標を達成していた。
さらに陸上でもクロパトキン大将率いる陸軍部隊が反攻を開始。日本陸軍は旅順への籠城に走り、鹵獲した火砲とミシェル中将率いる竜騎兵連隊の機動戦術。そして竜騎兵が馬車にホチキス式機関銃を取り付けて作った移動式陣地が全体的な崩壊を防ぐこととなった。
戦後、日本は戦費捻出のために借りていた多額の借金を解消するべく、債権国のアメリカと共に遼東半島の開発に着手。さらに自国の貧弱な生産力が戦争を困難にしたと理解し、政府は軍事費を一割削減。その分を基幹産業の振興と生産率向上のための諸政策に回し、国家予算の歳入を支える税収の向上に努めた。
これによって陸軍は一個師団が予備役に回され、海軍も日露戦争で鹵獲された艦艇を整備して数を増やす方針となったが、この時の采配が後の日本海軍の近代化に大きく寄与することとなる。
・・・
「さて諸君も知っての通り、我が海軍は創立以来、様々な敵と相対し、これに勝ってきた。だが常勝とは限らず、そして無傷とも無縁であった」
東京都品川区の上大崎、海軍で参謀となるべく鞭撻に励む士官たちが集う海軍大学校にて、教官は語る。
その視線の先、席に座る士官たちの顔触れは多彩である。アフリカ系の黒みがかった肌をした者や、白い肌に金髪や茶髪の映える者。性別も男子だけでなく女子の姿もある。しかし彼らは皆ここ日本で生まれ育ち、祝日には神社へ詣り、箸で米と魚を食する暮らしを送っていた。
『火炙り病』による成年男子の急激な減少を、欧州からの移民受け入れや奴隷購入で賄い、やがて生まれた子たちが日本の社会に適合してきた結果。それが今ここに集う将来の海軍将校たちの顔触れであった。
「一九〇七年に終結を迎え、遼東半島及び満州南部を租借してアメリカと共同開発に乗り出した我が国には、新型の軍艦を整備する余裕が無かった。それでもドイツが青島に極東艦隊を配置し、清国政府及び中華民国に対して軍事支援を行う様になり、旧式艦と鹵獲艦で茶を濁すことは厳しくなっていった」
教官は語る。戦艦二隻分の予算を呉や横須賀の海軍工廠の拡張に充ててより強力な軍艦の建造能力を確保する一方、イギリスに対して新型戦艦を発注。巡洋戦艦「金剛」を購入し、国内に輸送した部品や設計図などを用いて二番艦「比叡」を建造。三番艦「榛名」以降を完全国産化した後に扶桑型戦艦及び伊勢型戦艦を二隻ずつ建造していた。
「だが、この整備計画は一九一七年の二月を契機に、大きく狂わされることとなる。欧州大戦の幕開けである」
二月一八日、オーストリア=ハンガリー帝国のボスニアにて演習を見学していた皇帝フランツ・フェルディナンド一世が暗殺され、それと同じくしてセルビアが侵攻を開始。バルカン半島を起点に燃え上がった戦火は、たちまちの内にヨーロッパ全土を呑み込んだ。
この頃、オーストリアと同盟を結んでいたドイツ帝国は、対立関係にあったイギリスと、その同盟国である日本を牽制するべく、巡洋戦艦「ザイドリッツ」を旗艦とする極東艦隊を青島に展開。さらに新兵器のUボートも多数配備し、イギリスの兵力を東アジアへ釘付けにしていた。
「この当時、帝国海軍連合艦隊の兵力は金剛型を筆頭に戦艦十五、装甲巡洋艦八と主力艦の規模は十分だった。だがロシアやアメリカを牽制しつつ抽出できる艦の数は少なく、しかも「ザイドリッツ」と対等に渡り合える艦は金剛型と、就役したての「扶桑」の五隻のみだった。その状況で我が国は参戦することとなった」
開戦から凡そ一年、イギリスはドイツからの猛攻を受けるフランスを支援するべく多くの兵力を大陸に投じていた。しかしインドや東アジア方面の兵力は青島に居座るドイツ軍によって動くことが出来ず、これの排除を日本へ求めたのである。
日本も東シナ海における安全保障の関係からドイツ軍の物理的な排除は必要であり、一九一八年三月六日にドイツに対して宣戦布告。連合艦隊の総力を以て青島を攻め、同時にパラオやマリアナ諸島といったドイツ植民地へも攻め入った。
「だが、そこで我が帝国軍はロシアよりも強力な兵器と戦術に苦しむこととなった。先ず、ドイツ海軍は極東艦隊・太平洋艦隊共に多数の潜水艦を配備。海面下より我が海軍に痛烈な打撃を与えた」
当時のUボートは、数時間だけ海中に隠れ、ひっそりと高価な魚雷を投げ込む程度の『潜航可能な魚雷艇』であったが、その手の搦め手に対して策を持ち得ていなかった連合艦隊を苦しませるには十分だった。
先ず、三月二五日に行われた威海衛海戦では、連合艦隊は「ザイドリッツ」率いる水上艦隊とUボート艦隊の挟撃に遭い、戦艦「金剛」が損傷。残る三隻の戦艦で漸く「ザイドリッツ」を海の藻屑とするも、最後尾より砲戦に参加していた「霧島」は水雷艇の強襲に遭い大破。後に沈没している。
「金剛」も帰途の最中に復讐を目論む大型Uボートの伏撃に遭い、対馬沖で沈没。連合艦隊は一挙にして二隻の戦艦を喪失することとなった。とはいえ地上の拠点を喪失し、他の拠点へ逃げる余裕も失ったドイツ海軍の残党は降伏し、連合艦隊は友邦イギリスの救援により注力することとなる。
「ここからが、我が帝国軍にとって最大の危機である、欧州戦線での戦闘である。ミシェル・ボナパルト大将閣下を指揮官とする陸軍遠征軍と、山下源太郎中将閣下率いる連合艦隊遠征艦隊は、北海と地中海の双方でドイツ・オーストリア両国の艦隊と交戦した」
アメリカより戦艦四隻を含む艦艇三〇隻を借り、曲がりなりにも兵力を増やした連合艦隊は、手始めに地中海でアドリア海に進出。水上機母艦による爆撃と潜水艦の掃討を行った上でオルランド海峡を越え、七月七日にオーストリア海軍の主力艦隊へ強襲を仕掛けた。
後に『プーラ沖海戦』と呼ばれることとなる、イギリス・イタリアとの共同作戦にて、オーストリア海軍艦隊は壊滅した。潜水艦戦力も拠点もろとも破壊され、地中海における脅威を排除した日本海軍は戦場を北海へと移した。
九月一五日、イギリス本土に到達した連合艦隊はイギリス・フランス両国と共同してドイツ海軍主力に対して決戦を挑んだ。無理押しをしつつも勝利を握ってきた日本海軍に後れを取るまいと、英仏両国は主力艦隊を一挙に投じた。地中海にて脅威としてのしかかってきたオーストリア海軍艦隊無き今、持てる力を以てドイツ海軍を撃破する好機でもあったのだ。
そうして始まった、二つの海戦。ヘルゴランド島沖合とスカゲラック海峡にて多国籍艦隊はドイツ海軍大洋艦隊と激しい戦闘を繰り広げた。連合艦隊はヘルゴランド島沖合にてヴィルヘルムスハーフェンを拠点とする戦艦部隊と衝突。「扶桑」を旗艦とする戦艦八隻に巡洋艦一二隻、駆逐艦一二隻の計三二隻は、イギリスの本国艦隊と共に舳先を並べ、ドイツ海軍の戦艦部隊へ決戦を仕掛けた。
半日は続いた戦闘の結果、連合艦隊は勝利した。バイエルン級戦艦の集中砲火を浴びて轟沈した「扶桑」に、アメリカから借りていた戦艦二隻を含む九隻の艦艇と、山下司令官を筆頭とした多数の将兵と引き換えに。その中には山本五十六や栗田健男といった将来を見込まれた者の名もあった。
それでも、大洋艦隊を撃破した上で水上機母艦による海軍工廠への爆撃を含む、地上施設の破壊は北海の制海権を握る上で大きな効果を発揮した。地上でも竜騎兵部隊の奇襲攻撃や、フランスで開発されたFT一九軽戦車による攻勢、イギリスより供与された戦闘機による航空支援と、陸軍も相当な戦果を挙げていた。
「そして、開戦から凡そ三年が経った一九二〇年四月五日、ドイツ帝国政府は皇帝の退位とベルギーへの亡命を経て降伏。オーストリアもこれに追従し、大戦は終結した。だが、問題はここからである」
そう語る教官の表情が曇る。聴講している士官たちはその時点で察していた。
「一九二一年三月一一日、ロシア帝国にて社会主義革命が勃発し、多数のロシア人が亡命。その際、彼らを介して感染症が世界中に蔓延した。『革命風邪』の始まりである」
『火炙り病』の潜在的キャリアだった者から蝦夷地や樺太などを経由してロシアへ病原菌が移り、広大なロシアの国土で変異を起こしたこと。そして東部戦線で劣悪な環境の中で塹壕戦を強いられた兵士の間で感染爆発が起きたこと。市民間で気付かぬうちに蔓延していて、無症状状態にあった者が大急ぎでロシア国外へ亡命したこと。これらの要因が重なり、かつて日本を苦しめた病が世界そのものを苦しめることとなった。
「我が国は火炙り病の罹患リスクを考慮して、ロシア領内への派兵は樺太と千島のみで見送ったが、大戦直後の成年男性の死亡率は世界全体で跳ね上がった。ワクチンの開発により三年程度で終息したが、我が国は労働人口の不足において大きく頭を抱えることとなった」
全体的な人口減少と、講和条約で得た新たな植民地と信託統治領の開発。そして開発事業を支える産業の振興。これらの要素が重なり、日本は大々的な改革を実行することとなった。
手始めに、本国の交通インフラの近代化に巨額の費用が投じられた。朝鮮や台湾からの出稼ぎ労働者に、ロシアより逃れてきた亡命者を利用して主要な幹線道路を舗装。さらに建設工事に用いる機械の開発と量産も国策とされ、日本の交通インフラ整備事業に商機を見出した欧米諸国から投資を募った。また海外で用いられている標準軌型の幹線鉄道整備も開始され、鉄道物流の強化が進められた。
「そして昭和二年、西暦一九二七年に帝国政府は大日本帝国憲法の改正を実施。陸軍省と海軍省は兵部省へと統合され、さらに内閣総理大臣を最高司令官とする文民統制へと作り変えられた。これらはロシア革命にて露呈したロシア帝国軍の組織的欠陥を研究して行われた政治改革である」
欧州大戦への介入にて、日本は総力戦の何たるかを目の当たりにした。貧弱な経済力と旧態化している政治を刷新しなければロシアの二の舞となることは明白であり、一九二三年に起きた関東大震災からの復興事業と併せて、『大正の改新』と呼ばれる改革が行われた。
地方では、FT一九軽戦車をベースとしたトラクターが普及し、農業の機械化が促進。フランスに向けて大量の砲弾を供給していた企業はそのノウハウを用いて人工肥料を生産し、農家を豊かにしていった。
工業も同様に機械化と近代化が進められ、労働法の整備や社会保障の充実が行われた。それらの政策は政治の分野にも影響し、一九二八年の普通選挙法では満二二歳以上の男女に選挙権と被選挙権が与えられた。元々火炙り病による成年男性の減少で、女性も第二次産業や国防に大きく関わった時代があったことや、欧州大戦と革命風邪に関わる男子労働者の減少を受けて女子も工場労働者や陸海軍の後方支援部隊として活躍したことが大きかった。
そして現在、帝国軍は陸海軍、そして一九二九年に新たに組織された空軍にて、主に航空機搭乗員や事務員などの分野で女子将兵の志願を認めており、文字通りの『国民皆兵』が達成された状態となっていた。それ故にここ海軍大学校の講堂には男女の士官が講義を受けに来ているのである。
「…さて、今回の講義はここまで。次は連合艦隊の日露戦争終結から大正末期にかけての編成の変遷について述べる」
「一同、起立!礼!」
士官の号令に合わせ、聴講者全員は教官に向けて敬礼する。そうしてその日の講義は終わりを告げた。
・・・
神奈川県横浜市の日吉にある台地、日吉台。そこには帝国海軍の重要施設である日吉台連合艦隊司令部が設置されている。
かつての欧州大戦にて、ヴィルヘルムスハーフェンに立てこもるドイツ海軍大洋艦隊を撃滅するために仕掛けたヘルゴラント島沖海戦は、連合艦隊に大きな被害をもたらした。艦隊旗艦を担っていた戦艦「扶桑」が、山下源一郎司令長官以下多数の将兵と共に海中に没したことで一時的に指揮系統が消失し、敗北の危機に瀕したからである。
戦後、『大正の改新』に伴う改革にて海軍の組織構造も作り変えられることとなった。まず連合艦隊司令部は洋上の艦隊旗艦とせず、地上施設に置くこととした。そして現在、ここ日吉台の鉄筋コンクリート造りの司令部では、タテキ・ボナパルト海軍大将が一人の将校を出迎えていた。
「小沢少将、よく来てくれた」
司令長官室にて席に座るタテキに対し、小沢治三郎海軍少将は敬礼を解きつつ答える。
「はっ…此度の連合艦隊新編に伴い、第三航空戦隊への配属となりましたことをここにご報告しに参りました」
「うむ…現在の我が海軍は航空母艦の整備に注力しているのは知っての通りだ。とりわけ欧州大戦後は特にな」
タテキはそう呟きながら、司令長官室の一角に置かれている模型へ目を移す。それは航空母艦の模型であり、長大な飛行甲板には十数の艦載機の模型が並べられている。
欧州大戦の時、連合艦隊は水上機母艦を索敵や先制攻撃、追跡などに用いて先手を打ち、勝利を重ねていった。これを受けてイギリスは本格的な航空母艦を開発し、日本もこれに続いた。
そして一九四一年現在、連合艦隊には一〇隻の航空母艦が配備されている。日本列島近海のみならず、列強国間で結ばれた軍備制限条約で軍事基地を置けなかった南太平洋上の島嶼地域も守らねばならない日本海軍は、航空支援を担う航空母艦と、それらに随伴する駆逐艦の整備に注力していた。
中でもこれから小沢が配属される第三航空戦隊は、蒼龍型航空母艦「昇龍」と「幡龍」を擁し、主に東シナ海方面の警備を担当している。欧州大戦後、アメリカから大々的な経済支援を受けて成り立った中華民国は、ドイツやアメリカから購入した兵器で軍備を整えており、台湾を植民地から格上げになった海外自治州として有する日本の脅威となりつつあった。
「現在、連合艦隊は戦艦一一隻と空母一〇隻を中心に、マリアナ諸島及び台湾近海での漸減邀撃作戦を主軸とした整備を進めている。だが満洲や朝鮮の資源に、現時点では我が国に対して友好的なオランダ領東インドからの輸入が通商破壊作戦で途絶される可能性もある。それを防ぐためには航空母艦を充実させ、制空権を確保する必要がある」
「…確かに、責任重大ですね。空軍も長距離偵察機の開発と配備を急いでおりますが、アチラは地上防空と戦術的打撃を軸としていますからね。潜水艦狩りはどうしても我が海軍の責務となります」
「ああ…現在は新たな航空母艦の建造と配備も進められてはいるが、それに対して予科練の艦載機搭乗員の補充が追い付いていない。航空主兵論を唱えていた者は貴重な人命を浪費しやすい点を考慮していない者が多いからな」
十年前、海軍航空隊では『空飛ぶ水雷艇』のコンセプトで陸上攻撃機を開発し、主に沖縄や台湾に配備していた。後継も開発され、現時点で二四〇機の九五式陸上攻撃機が配備されている。
だが搭乗員数は六名と艦上攻撃機の倍であり、それでいて性能は航続距離と爆弾搭載数以外では単発機と相違がない。しかも現在では双発機と同等の航続距離と爆弾搭載数を誇る新型機が完成しており、その価値は下がりつつあった。そのため現在は、陸上攻撃機の役目を果たす中型双発爆撃機として空軍が開発と配備を引き継いでいる。
しかし機体の生産は進んでいても、それを使いこなす乗組員は直ぐに確保出来ない。機体そのものの抗堪性を上げて生存率を高めたり、新たな予科練を朝鮮や台湾に開いて教習生を増やす取り組みも行われているが、それでも実戦になればかなり厳しいと見られていた。
「近年、アメリカは満洲及び支那における経済利権の揉め事で我が国を敵対視している。その上で新型の軍艦を多数建造し、圧倒的兵力で我が国を攻めようとしている。何時でも有事に至る可能性を考慮せよ」
「はっ…」
小沢は敬礼し、踵を変えようとする。とその時、彼はタテキへ尋ねた。
「…そういえば、小耳に挟みましたが、呉の新型戦艦は連合艦隊司令部直属として運用すると聞きました。アレを如何様に用いる所存でしょうか?」
「…旅順と仁川の新型が完成するまでのつなぎとする予定だ。長崎と呉で造る予定だったものを潰してまで計画したものだ、せいぜいこき使い倒すさ」
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