第7話
と言う訳で真の初夜を迎えることになってしまった私は布団の上で膝を抱え、灯台の火が揺れるのに任せていた。とびっきりの、と言われたからにはいっそ薄衣で待っていてやろうかと思ったが、それには寒いし透けるのは恥かしいのでやめた。単衣は四枚の季節、女房に選んでもらって淡い色の袷にしている。
なんとなく口寂しくてころころと飴玉を舐めていたが、きし、っと音を立てて廊下が鳴ると、びくんっと肩が跳ねてしまった。拍子に飴玉をがりっと噛み砕いてしまう。灯台の火が心許ない。十四の良い歳の娘だと言うのに、私は誰からも文を貰ったことも無いし返歌したこともないのだ。所詮妾腹の娘、だったということだろう。いくら大納言の意向があっても、北の方に嫌われている娘では持参金も期待できない。妹はもう求婚の文を貰っているようだけれど、すべて父上が突っ返していた。この子はいずれ入内するので、と。
実際入内してしまった私は、それでも三年間この地位を守っていれば良いだけで、契約入内だ。子作りする必要も無ければ孕む必要もない。だが帝に求められて否やを貫けるわけがないのだ。何と言っても相手は今度こそ、『帝』になってしまったのだから。
障子戸が開けられる。御簾の奥で私は固まっている。入って来る人影。よく見知った、私より少しだけ背が低い、だけど年の割には逞しい身体。
「入るぞ、織花」
いつものように御簾の中に入って来る。いつも、そう、慣れていたはずなのだ、こんな経験は。普段は遊ぶか話し込んでいるかしていた、そう誤魔化していた。この人は帝ではないのだからそれで良いだろうと思っていた。でも時頼様は帝になって、帝は時頼様になって、空いた東宮の席はさっさと埋めてしまわなければならなくなった。
その為に中宮の元へと夜這いに来るのは、なんの不思議もないことだ。その前からお渡りは続いていたのだから、自然なことだと思われる。だけど。
いざ事となると、緊張して動けないのが我ながら情けないところで。
「と――帝、その、私は」
「うん?」
「私は妹が入内するまで中宮の地位を守っていれば良いと言われただけで、」
「うん」
「別にこういうことをする必要はなくて――」
「私にはある」
「え?」
東宮の席を埋めたいがために? それにしても十月十日は長いだろう。ならばこういうことは妹として貰えれば助かるのだが、と言っているだけだ。私は。くすっと笑った帝は、私の頬に触れる。武術も嗜む、ごつごつした男の人の手だった。それが今更妙に、意識される。今更。このひと月弱、毎日ここに来ていた人なのに。
「一目惚れと言う奴を信じるか? 織花」
「は?」
思わず頓狂な声が出る。
「本当は岡惚れだと思っていたんだ、兄上の中宮にこんな感情をいだくことになるなんて。でも織花は私を、政治の駒として自分を見ている私をそれでもすごろくや貝合わせでもてなしてくれた。偽物の帝と知りつつも、夜這いに来て遊ぶ私をなじることはしなかった。それに私がどれだけ救われていたか、織花、お前には分からないか?」
ふるふるっと頭を振る。分からない。だって私は実際政治の駒なのだから。父上にとっても帝にとっても時頼様にとっても、伴氏にとっても私は政治の駒だったのだ。何を感謝される理由もない。何を救われた気分になる理由もない。
私は私でいただけだ。ただの織花で。折られない花でいただけだ。諦めもしたし呆れもした。それだけの私に一体何を救われたと言うのだろう。一目惚れ相手にそうされたから? 一目惚れ。そんな。自分にそんな魅力はある訳がない。だったら、もっと愛嬌があったなら、義母から少しぐらいは好かれたかもしれないのだから。
私にはそれがない。愛嬌もそれを振りまく器用さも、持って生まれた才はない。そんな私をからかっているのだろうか、この帝は。時頼様は。そう思うと無性に胸が悪くなる。す、と身体を寄せて来た時頼様――帝の衣を押して、私は俯いた。ふるふるっと頭をまた振る。
「織花?」
「私は自分が花でないことを知っています、帝」
「どうして? どこが?」
「愛嬌もそれを振りまく手段も知らない、ただの貴族の妾腹です。誰からも好かれたことはない、好かれる術など知らない」
「そう言うところだよ」
「帝っ」
「愛想を振りまいてしたり顔で子種を待つ女たちは何人も見て来た。だから私は彼女たちに対しては、手を出して来なかった。この際だから白状しよう、初めて来た夜、気付かれなけれは私は兄として君を抱くつもりだった。言葉の綾でなく、そうするつもりだった。一度でも思いを遂げられれば満足できるかと思った」
「――――っ」
「だが君は『時頼』にもよくしてくれた。私がそうだと分かっても、差別することも無くね。後宮の口さがない噂はよく聞こえるんだ。兄君と弟君、どちらもよく似ているのに身分の差がこれほどに出てしまうのは哀れなほどだとね」
「哀れ……? 東宮が?」
「言っただろう、私と帝の誕生月は一つしか変わらないのだと。そのひと月の所為で、おそらく私は永遠に帝になれないと思われて来た。兄に不測の事態でも起きない限りは。だがその不測が起きたのだ。私は帝になったのだ」
「時頼様、」
「違う、私はもう『帝』だっ。誰に謗られることも無く中宮を抱ける、帝になったのだ! だから君も変われ!」
「きゃっ」
ぽふんっと敷布団に押し倒されて、長い髪を指で梳かれる。髪油塗っておいて良かったな、とどうでも良いことを考えた。しかしこの人、そんなに私が好きだったのか? こんな愛想もない私が? 愛嬌もない私が? 政争の駒ぐらいにしか使い道のない、私が?
「欲張りになれ。中宮として東宮を産み、国母となることを望んでしまえ。妹にはいずれ良い縁談をやる、だから君が――君こそが私の中宮になってくれ」
額に与えられる口付け。瞼に、鼻筋に、やがて口唇に降りて来るそれ。
嫌だとは思わなかった。殿方に好きにされるのは貴族の姫として生まれたからには当然のことだと思っていた。だけどこの方は。時頼様は、私を私だから好いてくれると仰る。私のことを中宮にしたいと。子供を産んで欲しいと。
そんな事を言われるのは初めてだし、殿方の口付けも初めてだった。初めてだらけの私に何を擦り込もうとしているのかと訝ってしまいそうなぐらい、甘い口付けだった。単に飴を含んでいたからだけかもしれないけれど、初めてにしては悪くない口付けだった。
私は妹の代わりにここへやってきたはずだ。もしも東宮を産めば、後宮から出られることはなくなるだろう。中宮の地位を追われることも無くなる。それは義母にとってはとんでもないことだろうが、父上にとっては戦略の駒が増えてよいことだろう。妹も有力貴族に嫁がせることも出来れば、藤原氏の権勢はより盤石になる。
誰よりも私が私自身を駒として見ているのではないのか。思ってしまえば、まあそうだな、と目を閉じてしまえた。今まで何にもならなかった娘を、父上は『使ってやる』と思っているのだろう。私も『使われてやっている』と思っている。似たもの父娘なのだ、私たちは。だからいがみ合うことも無く、私は言われるがままここにやって来た。入内してきた。三年間の期限を持った契約付きで。
だが私が東宮を産むことになれば、その期限はなかったことになるのではないだろうか。契約はなかったことになり、私はただ正式に入内してきた中宮、それだけになるのではないのだろうか。そうなれば良いかもしれない。下級貴族に払い下げられるよりも、よっぽど幸せなことなのかもしれない。
欲を出せと言われてしまった。変われと言われてしまった。御上に言われたのだ、聞かないわけにもいくまい。そう言い訳して、私は時頼様に身体を預けることにする。ピンとしていた背筋が急に力を失ったので、わ、と時頼様は私を布団に押し倒す形になってしまった。
胸に埋もれて、ばっと顔を上げ。赤い顔をして見せる。可愛い人だ。私より二つ年下なのだから、そうもなろう。だがこれから凛々しくなっていくのだろうな。立派な青年になって、立派な帝になる。そんな人の中宮になれると言うのならば、私は幸せなのかもしれない。
知れない。
取り敢えず恥ずかしいから、目は閉じておくことにしよう。
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