第28話 マーニャの昔話
翌朝の村は、うららかな陽射しに包まれていた。春の風が小さく揺らす洗濯物の合間を、ミルが嬉しそうに駆けていく。
シオンは、村の広場で木の修理をしていた。
といっても、子どもたちが遊びで傷つけた木の枝を支える支柱を立てるだけの、簡単な作業だ。
その横では、ナナが子猫のミルに小さな首輪を作っており、マーニャはセリカとともに食堂の献立を相談していた。
「……で、今日はシチューにしようと思うんだけど。干し肉と、じゃがいもがまだ残ってるし」
「いいね! あったかいの食べたい気分だし!」
とびきり明るい声をあげるマーニャだったが、ふと視線を逸らす瞬間、少しだけその笑顔が揺れるのを、セリカは見逃さなかった。
「……どうしたの?」
「え? な、なにが?」
「マーニャ、さっきからちょっとだけ、そわそわしてない?」
「そんなことないってば!」
それでもマーニャの様子が気になり、セリカはそっと彼女の袖を引いた。
「……何か、あった?」
そのとき、広場の端で、ひとりの老人が彼女たちの様子を見ていた。
どこかで見たような顔だった。白髪混じりの髪に、鍛えられた腕。そして、あたたかいがどこか寂しそうな眼差し。
シオンが近くに来て、老人に軽く頭を下げると、老人は小さく会釈しながら言った。
「……あの娘。もしかして⋯⋯やっぱり……いや、違うか……」
その呟きを、マーニャは確かに聞いた。
「……なんで、今……」
誰にも聞かれないように、小さな声でそう呟きながら、マーニャはそっと目を伏せた。
「マーニャ?」
「ううん、大丈夫。……ちょっと、風に当たってくる」
その場を離れるマーニャの背を、セリカとナナが心配そうに見送る。シオンもまた、彼女の異変に気づいていた。
だが、あえて何も言わず、そっとミルを抱き上げた。
ミルはくしゃみを一つすると、まるで「心配しすぎだよ」と言わんばかりに尻尾を揺らしていた。
──この村には、まだ誰も知らない『過去』が、静かに眠っている。
そしてそれは、マーニャの心の奥にも、深く深く埋まっていた。
午後の空気は、少しだけひんやりとしていた。
村の広場を抜けた先、丘の上にある一本の古い木の下。マーニャはひとり、そこに座っていた。
風に揺れる木の葉の音だけが静かに響くなか、彼女はミルを膝に乗せながら、遠くの山並みをぼんやりと見つめていた。
──そこに、セリカが静かにやってきた。
「ここにいたのね」
「……うん。ちょっと、考えごと」
ミルがくるりと寝返りを打ち、マーニャの指先に頬を寄せる。小さなその温もりが、彼女の胸に広がるざらついた感情を、ほんのわずかに和らげた。
「昔のこと、思い出してたの」
マーニャはぽつりと呟いた。
「……私、親がいたんだよ。お母さん。たぶん、今も生きてる」
セリカが驚いたように目を開く。マーニャはゆっくりと続きを話し始めた。
「小さい頃はね、よく笑ってた人だったの。私に花の名前とか、歌を教えてくれて……」
遠い記憶の中の母親は、やさしい声と笑顔を持つ人だった。
「でも、貧しくて、毎日が必死で。ある日、私を……手放した」
その声が少し震えた。ミルが鳴き声ひとつあげて、マーニャの指を舐める。
「売られたって、頭ではわかってる。仕方なかったって、思いたい。でもね、心はまだ、ぐちゃぐちゃなんだよ」
セリカは黙って、そっとマーニャの肩に手を置いた。
「たまに思うの。あの人が笑ってた顔、全部ウソだったのかなって……でも、それでも、ほんの少しだけ、信じたくて」
「……嫌いなのに、好き、ってこと?」
「そう。恨んでるのに、まだ、好きなんだ」
マーニャの目には涙がにじんでいた。
「この村で暮らしてるとね、家族って、優しさって、あったかいんだなって思える。でも、そのぶん、あのときのことが余計に刺さるんだ。どうして私だけ、って」
セリカは、その言葉の重みを受け止めるように、しっかりと彼女を見つめた。
「マーニャ……それでも、今のあなたは、ちゃんと誰かに愛されてる。シオンも、私も、ナナも。あなたを大切に思ってる」
「……うん。ありがと」
ミルが小さく鳴いた。
それがまるで「がんばれ」と言っているようで、マーニャは思わず微笑んだ。
──夕暮れ、木々の影が長く伸びる頃、ふたりはゆっくりと丘を降りていった。
その背中には、まだ完全には癒えない傷があった。
けれど、その痛みごと抱えながら、彼女は前に進み始めていた。
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