I.2 夜
———
夜はすぐに訪れた。
長青渓谷の夜は、中央星都よりはるかに静かだった。
賑やかな航路灯の光はなく、ただ杉林の間から聞こえる夜鳥の鳴き声だけが響いていた。
アルシャ・ヴィトは手を拭き、炉火の前に立った。
薪が微かにぱちぱちと音を立てて燃えていた。
テーブルの上には岩藤果のスープが用意され、薄い香草の香りが部屋に広がっていた。
今夜は、誰にも邪魔されない穏やかな夜になるはずだった。
だが、運命はいつも人の意図を超えてくる。
通信機の信号灯が再び点滅した。
先ほどよりも急を告げるように。
アルシャは歩み寄り、静かにパネルに指を滑らせた。
馴染みのあるチャンネルコードが表示された。
帝国社会治安署 · 宇宙治安分署 · ヘランドゥヤ行省艦隊 · 第三巡邏大隊。
スクリーンが明るくなり、ファンの映像が光幕に映し出された。
彼は艦隊の制服を着たまま、肩章は整っており、声は先ほどよりも低く聞こえた。
「アルシャさん、休息中に失礼します。」
「緊急の案件です。我々が押収した走私船の貨物と資金流が、ミラーズ・オペレーションの残存ネットワークに関わっていることが確認されました。」
アルシャはすぐに返答せず、スクリーンの前に立ち、彼の声に耳を傾けた。
「艦隊情報部とヘランドゥヤ治安署のデータを照合した結果、文化資金の流れが複数の自由港区に浸透していると判明しました。」
「走私者たちは、文化プロジェクトを通じて外環政治団体にリソースを供給しようとしています。」
ファンは一呼吸おき、さらに低い声で言った。
「特別専員組織の経験が必要です。」
アルシャは静かに息を吸い込んだ。
窓の外には夜の闇が広がり、杉木が沈黙の影のように立ち並んでいた。
すぐに答えなかった。
――ミラーズ・オペレーション。
その名は、かつて彼女の職業人生で最も重い章を意味していた。
同時に、それは彼女と仲間たちが勝利し、生き残った証でもあった。
勝利の余波が去ってから一年。
彼女とアルヴィンはようやくその世界から離れ、普通の生活に戻った。
少なくとも、そう思っていた。
アルシャの視線は書棚をかすめた。
隅に開いたままの古い記録帳が置かれている。
そこには、かつての風土記録や文化的争議の調停事例、そして――ミラーズ・オペレーションの報告が書かれていた。
彼女は静かに尋ねた。
「現在の治安署の支援体制は?」
「ヘランドゥヤ治安署は特別治安官部隊を動員していますが、経験が不足しています。」
ファンは簡潔に答えた。
「状況が悪化すれば、憲兵部隊の投入が検討されます。」
「それは避けるべきです。」とアルシャは首を振った。
「軍事力を早期に投入すれば、外環勢力に『帝国の圧政』という宣伝材料を与えるだけです。」
「まさにその理由で、あなたの力が必要なのです。」
通信の向こうは一瞬静まり返った。
艦隊の背後には無限の星海が広がり、その彼方には辺境の複雑さと不確実さが潜んでいた。
アルシャはゆっくりと頷いた。
「一晩、準備の時間をいただきたい。」
「承知しました。」ファンの声はわずかに安堵を含んでいた。
「ヘランドゥヤ艦隊と治安署は、あなたの確認を待ちます。特別専員組織の権限は依然として有効です。」
通信が終わり、光幕は静かに消えた。
部屋には炉火の柔らかな光と、夜の静寂だけが残った。
———
アルシャは椅子に腰掛け、記録帳の表紙を指先で軽く叩いた。
扉の向こうからアルヴィンの足音が聞こえた。
彼は修道院の夜間会議から戻ったところで、工具袋を手にしていた。
「通信か?」
「そうよ。」とアルシャは答えた。
アルヴィンはそれ以上聞かなかった。
椅子の隣に工具袋を置き、静かに彼女の隣に座った。
屋外では谷の風が吹き続け、夜の闇は優しくもあり、同時に測り知れないものでもあった。
「また始まるのか?」アルヴィンは静かに言った。
アルシャは頷いた。
「たぶんね。でも今回は戦争じゃない。」
アルヴィンは少し笑った。
「毎回そう言って、最後は違う展開になるんだ。」
アルシャは記録帳を閉じ、窓の外の星明かりを見つめた。
辺境の物語は終わらない。
秩序と混沌の境界線は、常にそこにある。
だが彼女は知っていた。
まだ、出発の時を自ら選ぶ権利があることを。
夜風が杉林を吹き抜け、遠く港区の航路から低いエンジン音が聞こえた。
それは、新たな物語の前奏だった。
———
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます