第4話
放課後のチャイムが鳴っても、教室にはいくつかの声と、椅子を引く音だけが残っていた。
カーテン越しに差し込む西日が、机の上を朱く染めている。
亮が鞄を肩にかけて、俺の方をちらりと見る。
「じゃあな悠。また明日」
それだけ言って、教室を出て行った。
昼休みの一件以来、俺の心は自分でもわかる程に沈んでいた。
亮はきっとそれを察しっていた。
別れは短い言葉だけど――きっとあれが、亮なりの気遣いだったんだと思う。何か言葉をかけたくても、何を言えばいいのか分からなくて、それでも黙って去るのは後味が悪い。まったく。アイツらしい。
ふと、大代と視線がぶつかる。けどそれは数秒だけで。
彼女は何も言わないまま、友達と談笑しながら通り過ぎていく。
そのとき、校内放送が流れた。
「日向悠君、保健室まで来てください。日向悠君、保健室まで」
*
保健室のドアを開けると、珈琲の香りがふわりと鼻をくすぐった。
放課後の光がカーテン越しに差し込んで、白いシーツのベッドと薬品棚を、淡く照らしている。
奥の机の前にいた蒼井先生が、俺に気づいて目を細めた。
「来たか。君も珈琲、飲むか?」
彼女は、穏やかな微笑を浮かべながら、立ち上がって小さな電気ポットの前に向かう。
茶色がかった長い髪をゆるく結び、今日も腰までかかる白衣を着ていた。
俺が何も言わないうちに、先生は白いマグカップを二つ取り出して湯を注ぎ始める。
「まあ、座りなさい」
言われるままに椅子に腰を下ろすと、温かいカップが目の前に置かれた。
「呼ばれた理由、わかるな?」
そう言って、先生は掌を差し出す。
「あ……すみません。返すの、忘れてました」
ポケットから鍵を取り出し差し出す。
その金属の重みは、まだどこか体に残っていた気がした。
「無くしてないようでなによりだ。
――元々鍵は二つあったんだが今はこれ一つしかなくてな。なくしたら大事になるところだった。で、どうだった?」
「……屋上の鍵で、間違いありませんでしたよ」
「そうか。それで?」
「それで……とは?」
「入ったんだろ? 屋上に」
先生の目が、静かに俺を見つめていた。
その目には責める色はなくて、ただ、知っていることを確認するような光だけがあった。
俺は観念し、白状する。
「入りました。勝手な事してすみません」
蒼井先生はそうかと呟き、珈琲をすする。
その顔はどこか嬉しそうに綻んでいた。
「別に責めたりはしないさ。私も君と同じくらいの頃はよく屋上へ行ったもんだ。まぁ、昔は今みたいに世間が厳しくなくて、いつでも鍵は開いていたがね。風が心地よかったろ?」
「……寝るには、持ってこいのロケーションでした」
気取って言ったつもりだったけど、先生はくすりと笑うだけだった。
「そうか。風に吹かれたか。風はいい。悩みを吹き飛ばしてくれるし、新しい出会いも運んでくれる。――まあ、時にはちょっと複雑なものまで運んでくるがね」
その言葉の意味を、俺はすぐには掴めなかった。ただ、心の奥で何かが引っかかる。
「さっきから、ずっと浮かない顔をしてるな」
「……そう、見えますか」
「見えるとも。まるで、進むべき道を見失ったみたいな顔だ」
俺は何も言えなかった。
見透かされているようで、言葉が喉の奥で凍りついたまま動かない。
「青春は、迷っていたらあっという間だ。悩んでる暇があったら、歩を進めろ。青春短し、歩けよ青年、ってね」
にかっと笑う先生に、俺は思う。この人は、不思議な人だと。
教師という立場でありながら、上から物事を言うんじゃなくて、同じ目線で話そうとしてくれる。何かを諭すようでいて、押しつけがましさがない。その言葉のひとつひとつに、温度がある。
そして同時に思う。この人になら、今悩んでいることを打ち明けてみてもいいんじゃないかって。
俺は気恥ずかしさを誤魔化すように後頭部をかきながら、ポツリとこぼす。
「それじゃ生徒として相談していいですか」
「ああ。どうぞ」
言葉を交わしながらも、保健室の空気は静かだった。白いカーテンが午後の光をふんわりと受け止めて、やわらかい影を床に落としている。遠くからは校庭の歓声がわずかに届いていた。
「俺、わからなくなったんですよ。自分が今やろうとしていることが本当に正しいのか」
淹れてもらった珈琲を一口すする。湯気の立つカップから立ち上る香りと、じんわりとした苦味が口いっぱいに広がった。
その苦味は、どこか心の奥のざらつきと似ている気がした。
「軽い気持ちではなかったんです。確かに救いたいという気持ちがあった。でも、それが相手にとっては大迷惑で」
口に出した瞬間、浮かんできたのは黒井の顔だった。あのときの、震えるような声。静かに、けれど確かに拒絶を示した言葉。
――迷惑なんです。
「そこで気付いたんです。今やろうとしていることは只の自己満足なんだって。俺がやっていることは救おうとしてることじゃなくて、相手を傷つける行為なんじゃないかって」
思い出すたび、胸の奥が冷たくなる。
もし、これ以上踏み込んだら、今度は俺が彼女を追い詰める原因になるかもしれない。
救おうとしているのは、単に自分が気持ち良くなるためだけで――
俺が満足している時に、彼女は更に傷ついていくかもしれない。
そう思うと、俺は怖かった。
「別にいいんじゃないか」
ポツリとこぼした蒼井先生の言葉に、俺は俯いていた顔をあげる。
その視線は、まっすぐこちらに向けられていた。やさしさでも厳しさでもない、ただ、しっかりと受け止める目。
「自己満足だっていいじゃないか。この世の殆どは自己満足だ。小さな子に手を差し伸べるのも、そこら辺のお年寄りに席を譲ったり、信号を渡る手伝いをするのも、全部自己満足だ。放っておいたら、自分の気持ちがもやもやして気持ちが悪くなる。あの時ああしていればと後悔をする。それが嫌だから行動する。言い換えれば全部、自分の心のケアのためだ」
先生はカップを指先で回しながら、穏やかに続ける。
「時にはその結果、相手を傷つけることも、自分が傷つくこともある。側から見ればそれは偽善だと言う奴もいる。ただ、よく言うだろ? やらない偽善よりもやる偽善って。私もそう思うよ。たとえそれが偽物でも、何もしない人間よりましだ」
その言葉に、胸の奥のどこかに少しだけ明かりが灯ったような気がした。
それでも俺は、自分の感情を完全に信じきれずにいる。けれど、そんな俺に、先生は静かに、けれど確かな声で言葉を重ねた。
「でもね、私は君のしようとしていることはただの自己満足じゃないと思うんだ。君はさっき言ったじゃないか。自分のしようとしている事が相手を傷つけるんじゃないかって。自己満足だけの人間は、そんな風に悩んだりしない」
先生の言葉が、ゆっくりと心に沁みていく。
「君は迷っている、悩んでいる、相手の気持ちを考えて寄り添おうとしている。それはきっと」
窓から吹き込んだ風が頬を優しく撫でた。
それは確かに、温もりのある風だった。
「助けようとしているってことだよ」
俺はまた顔を伏せていた。
けどさっきとは違った。
それは情けない顔を見られたくなかったからだ。
「助けることで相手が傷ついたなら、傷つけた分、埋めるようにまた助けてやればいい。なに、難しいことじゃないさ」
頭の上に手が置かれる感触があった。
指先に力はなく、ただ、そこに寄り添うような重みだけがある。押しつけるでもなく、慰めようとするでもない。それでも、不思議とあたたかかった。
「私は信じてる。君なら、日向なら、それが出来るって」
蒼井先生の言うとおりだった。
風に吹かれるのも悪くない。
俺は、まだ足を踏み出せるのかもしれない。いや、踏み出してみたい。そう思えたから。
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