鯖の模様
たきのまる
1
「子供の頃に想像していた猫型ロボットはこんなんじゃなかった」
店を出た後で記憶に残っていたのは、そんな悪態をついていたな、くらいなものだった。
ジャケットの襟に触れる。擦れてテカリのある肌ざわりを感じ安堵する。使い古された物の輪郭が俺を俺っぽくぼやかしてくれる。まだ大丈夫だと、ただの布切れが、俺にそう言い聞かせてきた気がした。
内ポケットにスマホをしまう。春の風の名残りは辺りが暗くなっても道端の隅に転がっている。「春は馬鹿が湧く」その言葉を胸に、今日の客入りを思い出す。新規はいなかった気がする。店の
*
男は言った。啜る麺の汁が飛んだ先の汗ばんだシャツに透ける乳首が目に入り、視線を逸らす。逸らした先にいた猫型ロボットが「ありがとにゃん」と音声を発する。同性として不快ではないが、仕事柄か、女が不快を思うものは排除しなくては、という要りもしない正義感が湧き立つ。
「──で、最後の出勤っていつだったんすか?」
男は太った頬をさらに膨らませ、はっはっと鼻息を荒くし咀嚼しながらそのだらしない汁混じりの口を開いた。口の中から覗いた物は渦巻きながらも咀嚼された黄色い麺だ。
「いやー、分かんないよ。オレだってずっといるわけじゃないし。まぁ、うちの
言葉を濁す割にはあっさりと答える。頭は弱そうだが、どうやらこういう業界の処世術は心得ているらしい。それかただの欲だろうか。案外こういう素直な奴ほどしぶとくこの業界に居座っていたりする。
ワイシャツの隙間から覗くパンパンに張った腹に生えた毛むくじゃらが視線の先にあった。その瞬間、もういいやと全てが面倒くさくなった。まるでアダルトビデオで男優の顔が映った時と同じ感覚だ。
「……あー、了解っす了解っす。じゃあまた今度、なんか知ってることあったら連絡もらえます?」
テーブルに置いた名刺は一つ前の店舗のものだ。あれだけ頭に入っていた住所と電話番号はもう覚えていないし、俺がどこで働いているかなんて誰も気にしてないだろう。存在しない物に目を向ける必要はないし、役に立たない物に時間を割く必要はない。それは互いにそうだ。会計表を手に取り、代わりに一万円札をテーブルに置く。
「え、……あぁ」とちらりと目をやり物足りなさそうに口を
「あ、店長」
顔を上げると店員の女と目が合う。俺の存在に気付いた拍子にぽろりと言葉が漏れてしまったようだ。
「あー、久しぶり」名前は出てこなかった。そういえば、しばらく顔を見なかったなという認識しかなかった。
「お久しぶりです」
「あれ? もうこっちは辞めたの?」
「あ、やってますよ。昼間はこっちです。
「あっそ。もし暇だったらさー、うちにも来てよ。ヤバいの通さないからさ」
ジャケットの内ポケットから取り出したケースから名刺を渡す。こっちは本物だ。
「えー、まぁ……。暇だったら……」
悪くない感触だ、と思った瞬間、彼女の顔が少し強張った。こういう時の女は大抵噂話をし始める。案の定女は会計のカウンターから少し身を乗り出してきて俺に耳打ちをした。
「さっきの話、わたし知ってます」
間刈のことをチラチラと気にしながら女は言う。
「……ふーん。今どこにいるか知ってる?」
聞くと彼女は手を差し出した。やはりこの業界で一番食えないのは女だ。食ってやっていると思っているといつも間にか食われている。そんな経験ばかりしてきた。
俺は財布から取り出した三枚の一万円札を彼女の手に置く。にこりと微笑んだスマイルは残念ながら0円ではない。
「
「へぇ。それはゴマサバ?」
「ご、ごまさば?」
「ゴマサバ? マサバ?」
「なんですかそれ?」
「……まぁ、いいや。何歳くらい?」
「うーん、多分30くらい?」
「……ふーん。黒髪ロング?」
「え? あぁ、いや……そうですかね、大人しそうな娘らしいんで。……多分」
「多分?」
「……えっ、あ、すみません。
返した眼光が鋭く見えたのだろうか。女の目が泳ぐ。中国人みたいな顔だと他人からよく言われるがこういう時には有り難い。こっちとしては何の感情もないはずなのに、見返しただけで相手が勝手に察してくれる。
「いや、いいんだ。ありがとう」
少し声色を明るくしただけで彼女は安堵の表情を浮かべる。使えない割に無駄な出費をしてしまったと心の中で舌打ちをする。軽く手を上げ店を後にする。スマホを取り出し
「
整ったとは言えない顔だが、瞳は丸く、頬も厚い。不快には感じられないが、魅力的でもない。髪は綺麗な黒色だ。長くまっすぐで悪くない髪だ。こういうパッとしない女の方がリピーターは多いことは事実だ。客は気が楽なのだろう。見栄をはらず欲を満たせる。証明写真は人を実物よりも老けさせる。それを見積もってもせいぜい20代か。
ため息が孕んだ苛立ちは誰に対してか。さっきの女か。それとも使えないデブか。または俺自身に対してか。
浮かぶのは
思い出すだけで吐き気がする。気持ち悪さからくるものではなく、体が覚えている。何度も殴られた腹からの嘔気。救難信号に近い動悸。根気強いのは明らかに耐える側の人間よりも危害を加える人間の方だろう。まさしく毒のように確実に俺から金を取り立て終えるまで苦しめてくるだろう。さっき食べた餃子のニンニクが混ざった胃液が逆流し、ニンニク臭の混じった苦味を感じる。
──一体どこにいる?
スマホをしまい、煙草に火をつけた。清涼感しかない煙だったが、それでも口の中の味を消してくれるわけではない。上書きをするだけだ。結局、全てそうだ。所詮は上書きをするだけ。過去は変えられない。どんどん上書きして塗り固めたドロドロのそれをありきたりな言葉でキレイにするなら「人生」だろうか。それとも「バックグラウンド」とか陳腐な横文字を使うのか。
俺は厚くなった塗膜を剥がすように首筋を掻く。荒れた皮膚の下には何があるのか。俺自身も分からない。生まれた傷から本当に赤い血が流れるのかも俺自身は分からない。血が流れることはこの目で見たことはあるが、それはもしかすると塗り固めた物が液状になって流れているだけかもしれない。その奥に何があるのか、俺は知らない。
バックといえば立ちバックNGの変わった嬢がいたなと思い出す。顔が見えない方が楽だろうにと話すと彼女は「後ろで何されてるか分かんないほうがキモい」と一蹴され笑った記憶がある。あの嬢がいた店は確かさっきの女が言っていた──。
しまったスマホをもう一度取り出す。相手は3コール以内で電話に出た。
「──もしもし。お疲れー。最近どうよ? ちょっと聞きたいんだけどさー。お前の店でさぁ……背中に鯖の模様の入れ墨した女、見たことない?」
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