とある小説家からの依頼

七凪亜美

第1話

これは、俺が経験した話である。


____



 水曜の四限、眠気をこらえながら、俺──沖山翔おきやましょうは大学の教室に座っていた。


 私立I大学の文学部、まだ二年。


 ゼミといっても座学中心で、実感のない議論と教科書の読解ばかり。


 だが今日は特別講義ということで、教室の空気も少しだけピリッとしていた。



 特別講義の先生は、今話題の小説家らしい。


 ゼミの先生の教え子で、三年前に新人賞を取って以来、ずっと売れ続けているとか。


「お前、あの作家知ってんの?」


 隣の席の山川が、スマホを見せてきた。検索結果の画面には、淡い色彩の装丁に包まれた文庫本の表紙が並んでいる。


松林凛まつばやしりん……って人」


「さあ。聞いたことないな」


「うっそ、最近めっちゃ人気だぞ?  SNSでバズってた。“死体に恋した男”ってやつ」


「タイトルからして無理だわ、それ」


 そう答えながら、俺は少しだけ興味を引かれていた。


 俺は正直、小説を全然読まない。だから松林の名前も聞いたことがなかった。


 でも、小説好きなら誰もが知る人物。


 そんなスターの存在に、俺はどこか胸を膨らませていた。


 まもなく教室の扉が開き、スーツ姿の男が入ってくる。


 見た目は三十代半ば。黒縁メガネに無精ひげ、痩せぎすで背は高い。見ようによっては冴えないけど、妙に目を引く。


「こんにちは、松林です。今日は“働くこと”と“お金”について、少し話をします」


 その第一声に、拍手も歓声もなかった。むしろ、どこか冷めた空気。


 松林は、事前に準備したであろう資料を片手に熱心に講義した。


 しかし、講義内容は拍子抜けするほど“普通”だった。


「働くっていうのは、人生の中でどう意味づけていくかが大事なんです」

「好きなことだけをやるのが正義、ってわけじゃないんですよ」

「お金があっても孤独な人は多いです。逆も然りです」

「好きなことでお金を稼ぐことは、簡単なことではありません」



 ──で? それだけ?


 高校の進路指導室で聞いたような、ありふれた言葉が続く。教室の後ろで寝てるやつもいた。


 俺は、バイトもしてるし、お金の苦労も少しはわかってる。


 薄っぺらい言葉には、つい心が離れてしまう。


 何か核心に触れるわけでもなく、上辺を撫でるような言葉が続く。


 ただ、不思議と視線だけは印象に残った。


 彼の目は、話す相手を見ているようで、その奥を覗いているようだった。


 講義の最後、感想シートが配られた。A4サイズの白紙。


「感想は正直に書いてください。思ったこと、感じたこと、何でも構いません」


 そう言われて、俺はその通りにした。



『話の内容は、自分が今まで聞いてきたようなことで、特別新しいと思いませんでした。

 ただ、講義をしていた先生が、自分の言葉で話そうとしていたのは伝わりました。

 感情を動かすには、体験の重みがいると思います』



 そして翌週、ゼミが終わった後、俺は呼び止められた。


「沖山くん、ちょっと来てくれるかな?」


 ゼミの先生の声だった。


 なにかやらかしたっけ。


 いや、とくに何もしてないはず。ちゃんとゼミには出席してるし、他の教科もちゃんと授業を受けている。


 犯罪も、隠蔽も、紛らわしくなるような行動も何もしていない。問題も何も起こしていない。



 ただ、いつも通り過ごしているだけ。



 俺はそう自分に言い聞かせながらも、内心ドキドキしながら先生の後をついて行く。


 案内されたのは、研究棟の一室。初めて入る先生の個人研究室だった。


 静かにドアを開けると、あの作家──松林凛が、革の椅子に座っていた。


「……こんにちは」


「ようこそ。沖山くんだね」


 彼は俺に手を差し出してきた。握手をする。その手は意外と温かかった。


 室内には、コーヒーの香りが漂う。


「……どうして、ここに?」


「君に、少しだけ話したいことがあってね」


 先生は、自分の役目を終えたかのようにデスクに向かうと、大量に山積みされた資料を手に取り始めた。



 松林は革張りの椅子に座り、テーブルの上に何枚かの紙を置いた。


「講義の感想、全部読ませてもらった。君の感想が、いちばん面白かったよ」


「面白かったって……」


「誤解しないで。君の言葉には嘘がなかった。だから、君にお願いしたい仕事がある」


「仕事?」


「君にしてほしいのは、“ネタ集め”。僕が今度書こうとしてる小説の素材を、君に集めてもらいたいんだ」


「……ネタ、ですか?」


「これだよ」


 彼はA4のコピー用紙を十枚、それと手書きのメモを差し出す。

 メモには、住所と電話番号が丁寧に書かれていた。


「この紙に、“身近で起きた不思議な出来事”を書いてきてほしい。全部で十個。一枚に一つずつ。次の小説は、不思議な出来事を元に事件を解決していく探偵物語にしたくてね」


「……不思議な出来事?」


「そう。怖い話でも、奇妙な偶然でも。身内でも、友達でも。嘘でも構わないけど、真実のように書くこと。君なら、できると思ったんだ」


「報酬は?」


 思わず口にしてしまった。


「うん。そうだな……大学四年間の授業料分、ってとこかな」


 その金額が現実かどうか、俺にはわからなかった。でも、彼の目は本気だった。


 大学四年分の授業料? ……冗談だろ?


 松林はニコニコと笑っていた。冗談に見えるのに、目だけは笑っていなかった。


「引き受けるかは君次第。でも、君ならいいものを書ける気がする。……ねえ、沖山くん、他人の人生に踏み込むの、嫌いじゃないだろ?」


 ぞくりとした。


 この男は、何を見てるんだ?


「……君、時々、自分でも気づかない顔をしてるよね」


 俺の心臓が、一瞬、止まったような気がした。


「……何の話ですか」


「ううん、こっちの話」


 彼は立ち上がって鞄を手に持つ。


「来月の今日。僕の家に来てくれればいい。話の続きはそのときに。もしも、分からないこととか、何か困ったことがあればその電話番号に連絡して。日中は難しいかもしれないけど……夜とかなら空いてると思うから。あと、このことは誰にも言わないでね。僕と沖山くんと……あと、そこにいる先生と三人だけの秘密だから」


 彼の目は、まるで舞台の幕が上がる瞬間を見ているようだった。




 研究室を出て、階段を降りながら、俺は息を吐いた。


 奇妙な話だった。けれど、報酬は大きい。


 何より──少し、面白そうだった。


 家に戻って、俺は十枚の白紙を机に広げる。


「不思議な話……ね」


 まぁ、割のいいバイトと思えばいいのかな。


 俺はゆっくり目を閉じた。


 とりあえず、明日山川に聞いてみるか。

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