第23章 2度目の空-都心-
新宿にある高層ビルのヘリポートは、一般人がそうそう立ち入れない場所だった。
風が、ビルを這うように下から突き上げてくる。
中村は車椅子のストッパーだけでは心もとなく、じっと車輪を手で押さえていた。
中村はビルの淵に危なげに立つ、井口と見知らぬ女性を眺めていた。
2人のシルエットの向こうには、息をのむほど鮮やかな落陽が映え、ゾッとするほど荘厳で美しかった。
中村は終ぞ、ここにいる理由を井口から教わらなかった。
井口は思いのほか誠実で、危害を加えない、金を支払うという約束は守った。
そして今日で開放するとも言った。
ただ傍で行く末を見守ってほしいのだという。
もう一人の女性が誰であるのか、杳として知れない。
二人はただ並び立って、話をしているようであったが、会話の内容は風の音に阻まれて届かない。
まるで一点の宗教画のような静謐さすらある情景であった。
これから井口が何をしようというのか、にわかに予感があった。
中村に憑く『妻』の気配が、そっと井口の方を向いた気がした。
屋上への扉が開かれたと思うと、愛子と忠司が転がり込んだ。
「やれやれ、招かざる客だがね。香織、君が呼んだのか?」
「呼んだというか、今日、お父さんにここに呼ばれたことを教えてあげたの」
忠司は中村の方に駆け寄ると、ひとまず外傷がないことに安堵した。
愛子は何よりもまず、中村に憑くエンジェルの異様さに目がいった。
膨張した黒の塊は、手だけが中村にしがみつくが、上半身を井口に伸ばし、牙を剥く獣のようだった。
「やはり、そこにエンジェルはいるようだな」
井口はポケットに手をいれたまま、愛子の様子を見てそう言った。
「いるっすよ。真っ黒いのが口開けて。井口さん、あなた何がしたいんすか!?」
井口は表情こそ豊かではないが、満足気に頷いた。
「その通りよ、お父さん。結婚式にも来てくれなかったのに、急に何なの?」
「出なくて正解だろう。一年も経たずに離婚しているじゃないか」
井口はさもやれやれ、子を諭すように香織に向き直った。
「娘さん、気を付けた方がいいっすよ!その人、あなたを道ずれにしようとしてるかもです」
実の父親を目の前で、批判めいたことを言うのは気が引けたが、他にしようがない。
香織も長い前髪を抑えながら、疲れた目を愛子に向けた。
愛子は「あっ」と顔に痛みが走るのが分かった。
清楚に見えるが血色のない肌と、落ちくぼんだ目―この人も、心の作用を失いかけている人だと思った。
井口の周囲の悪意が、はやく逝けと言わんばかりに懸命に井口の背を押している。
傍らの香織にもまた一つ、小さな赤黒い赤子がまとわりついている。たぶん彼女が殺した井口の孫だろう。
愛子の心臓は早鐘を打つように鼓動した。
僅か数秒後の未来が、予感から現実に変わろうとしているかのような錯覚を覚えた。
愛子は凍れる空気をまたぐように二人に駆け寄った。
忠司はその時、もみ合う愛子と井口と香織がどんな様子だったかはっきり見えていた。
井口は駆けよる愛子に怯んでか、瞬間、愛子の手を取って飛ぼうとした。
混乱していたのか、娘にかける最後の情だったのかは分からない。
だが香織が何かを叫んだ瞬間、井口は手を香織に取り換えて、音もなく二人の姿がビルから消えた。
愛子が独り、その場にうずくまっていた。祈るように、詫びるように、昏い陽に溶けるように。
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