第12話 小さな変化
彼は、毎朝コップ一杯の水を飲む習慣があった。
起き抜けのぼんやりした頭で、ただ喉を潤すために飲むだけの水。
味もなければ、特別な感情もない。
それは、生活の中に埋もれた、何の意味もない行為だった。
ある日、彼はふとしたきっかけで、
「水はどうして透明なのか」という動画を見た。
光の散乱、分子の振動、波長の吸収。
難しい言葉が並んでいたが、
その中の一つの説明が、彼の心に引っかかった。
――透明に見えるのは、光がほとんど吸収されずに通り抜けるから。
翌朝、いつものようにコップの水を口に運んだとき、彼はその透明さをじっと見つめた。
昨日までただの水だったものが、光の通り道に見えた。
「へえ……」
それだけのことだった。
けれど、その小さな「へえ」が、
胸の奥に静かに灯った。
その日から、彼は少しずつ調べるようになった。
水の温度で味が変わる理由。
水道水がどこから来て、どこへ戻っていくのか。
地球上の水が何億年も循環していること。
コップの中の水が、かつては雲であり、海であり、氷であり、誰かの涙だったかもしれないこと。
知れば知るほど、
コップの水は「ただの水」ではなくなっていった。
ある朝、彼は水を飲みながら思った。
――世界は、知るほどに深くなるんだ。
生活は相変わらず苦しい。
体調も不安定で、未来の見通しも立たない。
それでも、
「気づく」という小さな変化が、
彼の世界を少しずつ広げていった。
知識は、現実を変える力にはならない。
けれど、現実の“見え方”を変える力はある。
コップの水が透明である理由を知ったように、自分の人生にも、まだ見えていない意味があるのかもしれない。
その気づきは、弱さの中で芽生えた、ほんの小さな希望だった。
最後に残ったもの
やがて学は体調を取り戻し、再び自分の足で歩き始めた。
彼がこれからどんな道を選ぶのかは、まだ誰にも分からない。それでも、共に過ごした時間の中で育った小さな確信がある。
――きっと、彼は大丈夫だ。
その思いだけが、静かに胸の奥で灯り続けている。
自分自身もまた、書くことを手放さずに生きていく。
新しい知識に触れるたび、世界が少し広がる。知る喜びは、いつしか日々を支える習慣になり、「もっと知りたい」という渇きは、もう止めようがない。
昨日、帰り道で立ち眩みに襲われ、思わずホームに膝をついた。
ああ、もう若くはない――
その事実が、ふと胸に影を落とす。
ここまで来るのに、どれほど長い道を歩いてきたのだろう。
気づけば、人生の折り返しはとうに過ぎている。
そして今、静かに思う。
――まだ終わりではない。
弱さを抱えたままでも、灯りを手に、これからも歩いていける。
そんな予感だけが、最後にそっと残った。
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