3話 息子は私の地雷です

 夢みたい……。


 お披露目会の翌日、私はうきうきしながら、ヴィーのためにクッキーを焼いていた。


 もちろん、メイドたちからは止められたが、もともとわがまま放題だったのだ。好きにさせてもらう。


 あの子はオレンジの皮が入ったこのクッキーを気に入っていた。今でもはっきり覚えている。初めてこれを食べたとき、今まで感情を見せなかったヴィーの瞳がキラキラと輝いたのを。


 あの頃の私は、とにかくヴィーの心を動かしたくて必死だったっけ。


 今はジレが呼んだ家庭教師とお勉強中のはずだ。邸に来て早々、領主教育を受けさせるなんて、相変わらずスパルタすぎる。まずは邸に慣れてもらう時間を作るべきじゃない? 子供は家を継がせるための道具じゃないのよ?


 不満を募らせながら、私は焼きあがったクッキーと紅茶をトレイに載せる。


「ロレッタ様、そちらはわたくしどもが運びます」


 メイドたちが群がってきたが、手をひらひらさせてそれを制する。


「いいの、いいの。私がヴィーに会いに行く口実がなくなっちゃうじゃない」


 勉強も詰め込みすぎはよくない。ループ前は邸に来たばかりで気も抜けない状況が続き、ヴィーは熱を出して寝込んでしまった。


 夫の決定について、女は口出ししない。ループ前はこの世界の常識を守っていたが、もう知ったことか。なにがなんでも、息抜きさせてあげないと。


 トレイを持って厨房を出ていく私の後ろで、メイドたちの声が聞こえる。


「ロレッタ様、よほどヴィー様を気に入ったのね」


「まるで別人みたい」


 実際、昨日までのロレッタとは別人ですからね。


 大きな窓から差し込む、昼下がりの日差し。深紅のベルベット絨毯が敷かれた邸の長い廊下を歩きながら、私は思考を巡らせる。


 このミルフォード公爵領は、私の実家のウッデン伯爵領と隣接している。うちは領地自体が小さく、もし侵略を受ければひとたまりもない。ゆえに公爵に取り入った父と兄が私とジレを政略結婚させ、自分たちの安泰を図ったのだ。


 父と兄は私がジレとの間に子を設け、なおかつジレが死ねば公爵領も手に入ると思っているお馬鹿さんだ。ループ前はジレやこのあと側室としてやってくるこのゲームのヒロインの毒殺を命じてきた。全部無視してやったけど。


 本物のロレッタが実子を望まなかったのも、父や弟、ミルフォード家に子を産む道具として都合よく使われるのが気に食わなかったからだ。


 実際にロレッタになってみると、その記憶も受け継いだせいか、どうして悪女になったのかがよくわかる。


 子供の頃から、自分で決められることなんて、ほとんどなかった。家の力になる子息を誘惑しろと言われ、従わなければぶたれる。だから男をもてあそぶ悪女と言われても耐えた。


 そして結婚まで決められ、家を出たのをきっかけに、ロレッタの抑圧されていた感情が爆発した。もう家族の顔色を窺って、我慢をしながら生きていたくなかったのだ。


 というわけで、父と兄の言いなりになるつもりはないが、ヒロインに跡継ぎを生まれたら面倒なのは一理ある。主にヴィーの立場が危うい。現状、ヴィーはミルフォードの直系の跡継ぎが生まれなかったときのためのスペアだ。


 もし側室との間に男児が生まれれば、ヴィーも私もお役目御免になる。ループ前、ヒロインが身籠っただけで、邸内の人物の私たちへの当たりは極端にきつくなった。


 義父や義母は私たちをいないものとして扱い、メイドたちですら食事を質素にしてきたりと嫌がらせを受けたものだ。私がゲームでプレイしたシナリオでは、そんなことをするような人物として、彼らは描かれてはいなかったので、これはロレッタが本来とは違う行動をとったから起きたことだと考えている。


 それでも、ヴィーがいたから幸せだった。でも、それだけじゃ駄目だったのだ。ヴィーの運命を変えるためには、軌道修正できないほど、もっと大きく状況を覆さなければ。

 まあ、そのたびに時間を巻き戻されたとしても、何度でも改変してやるもりだ。


 決意を新たに、ヴィーと家庭教師がいる部屋の前までやってきた私は、ノックしようとした。が、


「孤児であるあなたに、このようなことを教えても無駄になるでしょう」


 ……は?

 中から聞こえてきた家庭教師の声に動きを止める。


「いいですか? 二度は言いません。一度でも間違えれば、罰を与えます」


 あん? ヴィーになにを言いやがったんだ、こいつ?


 家庭教師もヒロインが身籠ったあと、ヴィーに対して辛辣だった。でもまさか、こんなに早い段階からヴィーを邪険にしていただなんて。


 ヴィーは自分から相談する子じゃないから……私に心配かけまいと、我慢していたに違いない。


 私はトレイを花瓶台に載せると、ドアを開けた。 


「罰を与える、ですって?」


 年配の家庭教師は目を剥いた。


「ロレッタ様……!?」


 あー、驚いてる、驚いてる。それもそうよね、今まで子供になんか興味ないって振る舞いをしてきたんだもの。それをいいことに、こんなに小さな子供をいびるなんて、クソ野郎。


「一介の家庭教師風情に、公爵家の子を罰する権利があると? 随分と偉くなったものね」


「いえ、そんなつもりは……!」


 焦っている家庭教師の後ろで、ヴィーは思いつめた顔をして俯いている。あんなに縮こまって、もっと早く来てあげればよかった。


「なにを揉めている」


 そこへ領地視察へ行っていたはずのジレがやってきた。その後ろには赤髪の背の高い男がいる。


 かきあげられた前髪の下には、きりっと整った眉とグリーンアイ。攻略キャラクターに食い込んでもおかしくないほどの美しい顔立ち、騎士団長として騎士をまとめてきた人望の厚さ、騎士公爵という地位を持ちながら、ジレの親友というサブキャラに収まった惜しい人物、グリフ・モアブラッド、二十七歳。


 確か、このゲームのファンディスクのほうで、メインキャラに格上げされる予定だった。まあそうだよね、明らかにサブキャラってスペックじゃないし。


 私はファンディングをプレイする前にこの世界に来てしまったので、残念ながら彼のことはさほど知らない。この時点では、まだサブキャラのままだろうし。


 そんなことを考えていると、家庭教師がジレに泣きついた。


「旦那様! ロレッタ様が私の教育方針がなっていないと、おっしゃられて……」


 はい~~~~!? このほら吹き親父、やりやがった!


 ロレッタのわがままぶりは、邸の誰もが知っている。ジレも家庭教師のほうを信じるだろう。それがわかってはいても、私がむしゃくしゃするので言わせてもらう。


「孤児であるあなたに、このようなことを教えても無駄になるでしょう。一度でも間違えれば、罰を与える。その家庭教師は、そうおっしゃったのです」


「そ、それは誤解で……っ」


 焦る家庭教師に、ジレは私を見て眉を顰める。


「それは事実か? 彼は私の家庭教師も務めた者だ。そのような品のない物言いはしないと思うが」


 やっぱり、ロレッタよりもその家庭教師を信じるわけね。見てみなさいよ、あなたの後ろに隠れている家庭教師の勝ち誇った顔。人を見る目がないったら。


 私はため息をつく。


「それはあなたが直系の後継者だったからでしょう。でも、自分より格下だと思った者には礼儀を払わない。そういう人間だったということです」


「なっ、そのようなことはございません!」


 顔を真っ赤にして怒っている家庭教師をきっと睨む。


「てめえは黙ってろ、ハゲ散らかすぞ、オラ」


 目を眇めれば、ジレの後ろにいたグリフ公爵が吹き出し、すぐに口元を手で覆った。


 ジレは疲れた様子で眉間を指で押さえており、考えを巡らせるような顔をしたあと、ヴィーに近づいていく。


「ヴィー、今の話は本当か」


 おいおい……この家に来たばかりで、しかもいびられた直後に本当のことを話せるわけがなかろう。本当に子供心がわかってないんだから。


「ぼく、は……」


 案の定、ヴィーは俯いて口ごもってしまった。かわいそうに。


「ロレッタの勘違いではないのか?」


 そう来るか。ヴィーははっと顔を上げ、私を気遣うように見た。


 私は大丈夫よ、と微笑み返してあげる。信じてもらえないのは慣れている。前のループでもそうだった。ロレッタ・ウッデンとは、そういう役回りなのだ。


「当事者が同じ空間にいる状態で、素直に話せるわけがありません。報復を恐れているのです。ヴィーは賢いわ」


 ヴィーに近づいて行ってその頭を撫でると、私の可愛い天使は驚いたように見上げてきた。

 私は最後ににこりとして、前に向き直ると、ジレを強く見据える。


「この際だから言わせてもらうわね。ヴィーはこの邸に来たばかりなのよ。まずはここでの生活に慣れてもらうのが先でしょう。こんな後継者教育より先にね」


「ヴィーは出遅れている。私はヴィーの歳よりも幼い頃から……」


「親がそうだったからって、それを子供にも押し付けないで。ヴィーはここに来るまで、平民だったのよ。その中でも特別な環境下で育った。配慮が欠けているわ」


 黙り込んだジレを無視して、私はヴィーの手を取った。


「これ以上、争うところを見せたくないから、もう行くわね。さ、ヴィー。お母様と手を繋いで、お庭に行かない? あなたのためにクッキーを焼いたから、お茶会なんてどう?」


「え……」


「オレンジの皮が入ったクッキー、きっと気に入るわ」


「……うん」


 こくりと頷いたヴィーの小さな手が私の手を取る。


「まだ授業は終わっておりませんぞ!」


 家庭教師の言葉にヴィーは立ち止まりそうになるが、私はそのまま手を引いて部屋から連れ出した。


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