ねこふんじゃった ( 招き猫 後日談① )

胡夢卜

 ──どうしてだ。


 どうして、こんなにも違っている?


 額にかかる髪を指で押し戻しながら、目元だけでスケッチを睨む。

 その手にわずかに震えがある。


 目の前にある「二枚のスケッチ」──どちらも、今日、自分の手で描いたものだ。紙の感触も、ペン先の抵抗も、描いたときの集中も、影を入れるときにほんのわずかにためらったあの感触も、ちゃんと記憶に残っている。最後に息を吐いて、ペンを離した瞬間の手の感触までも。


 ──だからこそ、わからない。


 同じものを、同じように描いたはずだった。見たままを、いつものようにスケッチしただけなのに──並べられた二枚の絵は、まるで別物だ。


 「一枚目」には、福々しい顔の招き猫の足元から、黒い何かが這い出していた。禍々しく絡みつく、まるで根のようなもの。紙の中でそれは、生きているかのように巻き付いていた。


 そして今、目の前にある「二枚目」の絵には、そんなものは描かれていない。ただ、どこにでもあるような、前掛けに「倒福」と描かれた、古い招き猫の姿があるだけだ。


 描いた角度も、影の位置も、筆のタッチすら同じようにしたつもりだった。模写じゃない。複製画みたいなものでもない。ただ同じ対象を、同じように一から描いた。なのに、違ってしまっている。


 ──同じだったはずなのに。


 静かに目を伏せると、長めの前髪が影のように頬へ落ちた。表情が、その奥へ

隠れていく。


 僕は、まるで気づかなかった。「一枚目」を描いているとき、あんな異様なものを目にしていたなんて思ってもいなかった。あの黒い根のような物──目を疑うような異形の存在──を、どうして平然と描けたのか、自分でも理解できない。


 そして「二枚目」のときだってそうだ。直前に描いた絵と全く違うものになっているなんて、全く思いもしなかった。ただ、見たままを、被写体の招き猫をいつものように丁寧に描いただけ。見たままだった……はずだったのに。


 ──どうして、気づかなかった?


 ──いや、集中していたからだ。


線の太さや、陰影のバランス、細部の形状にばかり意識を向けていた。全体像なんて、見えていなかったのかもしれない。ずっと前からそうだった。僕はそういう描き方をする──細部ばかりを凝視して、全体の違和感に鈍くなる。けれどそれは、ただの癖の問題じゃない。


 無意識に後ろ髪をかき上げ、手のひらをそのまま頭頂に留めた。

 まるで考えがそこから漏れないようにでもするように。

 喉の奥が乾く。唾を飲み込むたび、何かが引っかかるような痛みが走る。頭の奥が白くなって、鼓動と時計の音が混ざり合って耳の中を打つ。視界が狭まり、思考が内側へ、さらに深く沈んでいく。


 ──認めたくない。


 でも、もう逃げ場はない。


 目の前の二枚は、まぎれもなく自分の手で描いたものだ。

 それを否定する理由は、どこにもない。僕が描いたのだ、確かに。

 なのに、あまりにも違う。


 自分の描いた線に、僕は今、怯えている——。


 視線が、机の上の“それ”へと引き寄せられた。


 ──招き猫。


 二枚のスケッチの、どちらの被写体になったあの、古びた陶器の人形。


 福々しい丸顔。愛想笑いのような目元。右手を上げたまま、にこりと笑っている。

 何の変哲もない、どこにでもあるような顔。


 「見えていたくせに」とでも言いたげに、じっと。

 何も言わないその顔が、僕の胸の奥をじわじわと押し潰してくる。


 ──僕は、知らなかった。いや、気づいていなかった。……たぶん、本当に。

 

 でもそれは。


 ──見ようとしていなかっただけなんじゃないのか?


 胸の奥が冷たくなる。

 ほんの少しでも気づけるはずだった。あんな黒いものが、あんな異様な根が描かれていたのに、それを“そのまま”描きながら、何の疑問も抱かなかったのか?


 ──いや、違う。違う、違う。


 自分に言い聞かせる声が、どこか空々しく響く。

 招き猫の笑顔が、また別の何かに変わった気がして、もう一度、目を逸らした。


 ──僕は、何を描いたんだ?


 頭の中で誰かが問いかける。声にならないその問いは、繰り返すたびに喉の奥を締めつけてくる。


 二枚のスケッチ。どちらも、自分の手が描いたもの。

 それに間違いはない。だけど、その二枚の画は、決定的に違っていた。


 「一枚目」に描かれていたのは、招き猫の姿をした“別の何か”だった。

 あの黒い根みたいな。あんなもの、見た覚えなんてなかった。でも、描いてしまっていた。しかも細部まで、異様に正確に。


 描いた記憶はあるのに、描いたものの中身は覚えていない。


 ──そんなことが、あるだろうか。

   いや、あるのかもしれない。


 もしかしたら僕は、視ていたのかもしれない。

 最初に視たときの“それ”を、そのまま写し取っていた。

 でも、無意識のうちに、それを“普通の事”として無視していたのかもしれない。


 ──だとしたら


  両手を握りしめたまま、肩がごく小さく上下している。呼吸が荒くなる。


 ──だとしたら僕は、ずっと前から、こうして“何か”を

   見過ごしてきたんじゃないか?


 視えていたのに、視えていないふりをしてきたんじゃないか?


 現実だと思っていたものは、本当に現実だったのか?

 違う実像を、別の世界を、自分の目だけが拾ってきたとしたら──?


 寒気がした。

 招き猫の顔が、また一瞬だけ、歪んで見えた気がした。


 ──僕は、視ていたのか?


 ──そして、気づけなかっただけなのか──。


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