第19話 誤算


 まずいまずいまずいまずいまずい。

 このキノコ、何を命令する気だ。


 今、コイツの隣にいる埜ノ乃のののは本物。


 ………最悪、行き過ぎた命令なら拒否してくれるはず……だが……。


 胸の中に嫌な予感が広がっていっていた。


「まぁその前に、はい埜ノ乃ちゃんのお酒。パパっと飲んじゃってよ」


 グラスの中でとろりと揺れる液体、その琥珀色の波が俺の神経を逆なでていく。


 キノコが埜ノ乃に手渡したあのお酒は媚薬入りだ。サキュバスにそんなものが効くのか分からないが、もし埜ノ乃の判断力が鈍ったら……。ワンチャンの事故が起こらないとも限らない。


 こうなったら、このキノコには指一本埜ノ乃には触れさせるわけにはいかない……。


 いや、まずこれを飲ませないように ──── あっ……。


「あ、ありがとうございます。丁度、喉乾いてて」


 埜ノ乃は無防備な笑顔を浮かべグラスを受け取ると、俺が止めるまもなくカクテルに口を付けた……。


「おぉいい飲みっぷりだ」


 彼女の艶やかな喉元が上下するたびに、俺の理性は冷や汗をかいていく。


「ふぅ」


 ほぼイッキにも近いスピードで、彼女はグラスを空にしてしまった。


 まるで今の今まで何も飲んでないかの ──── そうだ……本物の彼女はさっきから何も飲んでいないじゃないか。くそっ。あの時、恥ずかしがらずに俺がハイボールを飲ませておけば。


「んっ……なんか変な味かも……」

「んー? 気のせいじゃない?」


 口元に手を当て眉を寄せた埜ノ乃に対し、キノコは乾いた笑いで肩をすくめた。


 ヤバイぞ、これはマジでヤバイ。


 胃の底あたりがじくじくと痛む。怒りか、それとも不安か、どちらにせよ俺の心は穏やかではなかった。


「…………」


 二人の間に訪れたわずかな沈黙。


 ん?


 目を見張らせているが、キノコが埜ノ乃に触れようとする様子はなかった。


 どうしたんだこいつ?

 もしや媚薬が効くのを待っているのか?

 そうはさせん。


「先輩、命令は?」

「ん、あぁそうだった。じゃあ……」


 もはやイカサマを隠す気もないのだろう、おもむろに埜ノ乃の方を向くキノコ。


 そして埜ノ乃が持っていたグラスをひょいと取り上げると、彼女だけに言うようにしてキノコが命令を下した。


「王様と三番が、三分間見つめ合う」

「三番……私だ……」


 二人の一言がまわりの空気を静止させた。


 …………。


 棒を握りしめたまま沈黙する埜ノ乃と、彼女を見つめるキノコ。


 ん? それだけ?


 それは〝あからさまな命令〟ではなかった。あまりの予想外にチラリと猿道の方をみても、ぽかんと呆けた顔をしている。……おかしい。

 

 心にじわじわと忍び寄る違和感。


「特にエッチな命令でもないような……」

 

 金髪のB子……。

 コヅエちゃんが、全員の心中を代弁したかのようにボソリと呟いた。


 そう。追加ルールにより、命令はエッチなものにする決まりなはず。それなのにキノコの指示は『見つめ合う』だけ、ボディタッチすらなしだ。


 本当にこの命令で良いのなら間違いが起こるなんてことは万が一にもないだろう。疑念から、そんな仄かな安心に気持ちが切り替わろうとしていた時だった。


 ……ん?


 さっらさの金髪と共に、キノコが割り箸を横に振っていた。


「ただし場所はあそこな。男女共用トイレの中、さっ、行こっか埜ノ乃ちゃん」

「えっ、いや、ちょっと……まっ……」


 突然ぶち込まれた爆弾。

 その言葉が落ちると同時に、俺の背筋を冷たいものが走った。


 は? コイツ今なんて言った??

 今からあの個室の中に埜ノ乃と二人で入る?

 そんで三分間見つめ合うだと?


 そんなバカな命令が通るはずない。埜ノ乃だってこれは断るはず……。


「……んんぅ……頭がフワフワする……」


 埜ノ乃の頬は桜色に染まり、呼吸も荒く、目の焦点は定まっていなかった。飲んだアルコールの量に対して明らかに酔いとは異なる反応。


 まさか、媚薬が効いてっ……!?


「おっ埜ノ乃ちゃん大丈夫? 支えてあげよっか?」

「い、いや私は……こ、うしろう……く、に」

「おい、埜ノ乃……!」


 慌てて彼女に手を伸ばす俺。


「あ゛? 邪魔だどけ」


 彼女を支えようとした俺の手はキノコによって乱暴に払いのけられ、代わりに埜ノ乃を支えたのはコイツの腕だった。


「あ、皆はそれ飲んだら勝手に帰ってていいよー、俺と埜ノ乃ちゃんはこの命令やったらちょっと休憩して帰るわ。支払いも済んでるから気にしないで」


 周囲に向かってヒラヒラと手をふると、ふらつく埜ノ乃の腰にすっと手を回すキノコ。


「まぁ三分じゃ終わらないだろうけど……」


 埜ノ乃の肩越しに向けらた下品な笑みは、俺の心をぐらりと揺るがした。間違いない、アイツはここでヤるつもりだ。


「あ、えーっと……どうします?」

「ご、ごめんねコヅエちゃんカスミちゃん。今日はこれで解散かも」

「だ、大丈夫です。分かりました」


 脳みそをフル回転させている俺の横では、猿道が二人の女の子の対応をしていた。


「猿道……。お前、そのまま二人送っていけ」


 まるで映画のスローモーションのように、埜ノ乃の背中が遠ざかっていくのを見つめながら猿道に伝えた。


 ここからは俺の戦いだ。やるしかねぇ。


「ん? 巧史朗?」

「いいから、お前はカスミちゃんとばっちり決めてこい」


 立ち尽くす猿道を既に出口に向かって歩き始めているカスミちゃんの方へ軽く小突き、親指を立てる。


「いや、でも……お前は?」


 心の中では何かが爆ぜていた。

 鼓動が急加速し、指先に力が入る。


「俺も決めてくる」


──── 行かせるかよ、キノコ野郎。


 目を見開く猿道の肩を再度強く押し、俺は埜ノ乃を追いかけた。


 ほぼ担がれるようにして、共用トイレに入ろうとしている彼女。まさにその扉が閉まる間一髪で、俺は足をねじ込んだ。

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