第18話 対峙

「くっ…!」


窓から差し込むはずの月明かりもここには届かず、闇はただ重く、濃密に彼らを取り囲んでいた。

リオに鋭い寒気が背筋を駆け抜けた。

床に浮かぶ無数の影が、まるで彼女に手を伸ばすように揺れ動いている。


「ここは…。」


目の前に見えるのは、あの日、ハルが入ってしまった禁忌の場所。

教室の奥、割れた鏡の欠片がなおも不気味な輝きを放ち、リオの心に刻まれた罪悪感を抉るようにきらめいていた。


『どうして、気づいてくれなかったの?』


『どうして、見捨てたの?』


リオの耳元に、あの夜の記憶が鮮明に蘇る。自分の無力さが、あのときの恐怖が、彼女の心を締め付ける。


「…私は…見捨てたわけじゃ…!」


震える手が無意識に拳を作る。

だが、その瞬間、教室の隅から黒く歪んだ手がゆっくりと伸び、彼女の足首に絡みついた。

冷たく、重く、絶望に満ちたその感触が、彼女を再び闇に引きずり込もうとする。


「やめろ…!」


必死にもがくが、その手はまるで彼女の心の闇に呼応するかのように強く締め付けてくる。



一方で、コウの視界もまた、かつての悪夢に染まり始めていた。

コウは全身の血が凍るような感覚に襲われた。

壁や天井から沸き立つ黒い霧が、まるで彼女を待ち構えていたかのようにうごめいている。

その霧は、怨念が渦巻く視線となってコウを射抜き、彼女の心に巣食う“弱さ”を暴こうとしていた。


「また…あの時みたいに、取り憑かれちゃうかもしれない…。」


幼い頃に経験した、あの絶望的な恐怖が頭をよぎる。

見えない何かに締め付けられ、周囲の誰にも理解されなかった孤独。

そんな記憶が蘇り、足がすくむ。


「怖い…でも、ここで怯えちゃダメだ!」


コウは自分を奮い立たせるように、強く札を握りしめた。

彼女は目の前の霧に向かって札を投げつける。

札が霧に触れた瞬間、霧が一瞬だけ後退する。

だが、その隙間から無数の影が手を伸ばし、彼女の足元を絡め取ろうとする。


「く、来るな!」


震える声で叫びながらも、コウは必死に札を投げ続ける。

その姿は、かつての弱かった自分への反抗であり、今ここに立ち向かう覚悟そのものだった。


「また、取り込まれる…また、あの闇に…!」


彼女が幼い頃に経験したあの恐怖、霊に取り憑かれたときの絶望が鮮明に蘇る。

体の中に侵入してくる冷たい存在感、意識を奪われていく感覚──それは今でも彼女の心に深い傷を残していた。

そのとき、教室の壁から無数の白い手が伸び、彼女に向かって蠢くように伸びてきた。


「っ…やめて!いやだ!」


その手は、かつて彼女が感じた“無力さ”そのものだった。

どれだけ叫んでも、もがいても、その闇から逃れることはできない。

だが、そのとき、ふと脳裏に浮かんだのは、リオやシュウ、ゆらの顔だった。


「私はひとりじゃない…!」


彼女は強く目を閉じ、震える手で札を掴んだ。

その札が微かに温もりを帯び、彼女の胸に安堵の感覚が広がる。


「…私は、あのときの私とは違うんだから!」


その言葉に反応するかのように、彼女の手に握られた札が熱を帯び、白く燃え上がった。その炎が彼女を取り囲む無数の手を弾き飛ばし、壁に刻まれた黒い痕跡が淡く溶けていく。



シュウは強烈な吐き気に襲われた。

床に広がる黒い影が、まるで無数の人々が呻き、苦しみながらもがいているかのように見えたからだ。


「くそ…!」


彼女はその場で歯を食いしばり、札を握りしめた。

だが、その手が震えるのを止めることはできなかった。

シュウは幼い頃に家族を失った。

自分が何もできなかったせいで、大切な人々が目の前で消えていった。

その記憶が、彼の心に今も鋭く突き刺さっている。


「また、お前は誰も救えない。」


「また、大切なものを失うだけだ。」


その声が頭の中で反響し、彼女の心に絶望が押し寄せてくる。

だが、そのとき、彼の胸ポケットの中で微かに温もりを感じた。

家族の写真──彼が今も持ち続けている、ただ一つの希望の象徴だった。


「あたしは…誰も見捨てない…!」


彼は震える指でその写真を強く握りしめた。その温もりが彼の心に灯火を与え、怨霊たちの囁きをかき消すように札が燃え上がる。


「あたしが守れなかったら、みんなが危険にさらされる…!」


彼女の脳裏には、過去に助けられなかった霊たちの顔が浮かぶ。

失敗への恐怖と、自分が仲間を守るという責任の重さが彼を苛む。


「絶対に、負けられない…!」


その決意が力となり、彼はさらに強く結界を張り巡らせた。



そして最後に、ゆらもまた心の中で激しく揺れていた。

教室の闇の奥に、微笑む母の面影が見える。


「…お母さん…?」


その姿に向かって無意識に手を伸ばそうとした瞬間、足元から無数の冷たい手が絡みついてきた。


「っ…いや、離して!」


だが、その感触はどこか懐かしく、温もりさえ感じるもので──それが逆に彼女の心を引き裂いた。


「どうして、私を置いていったの…?」


「どうして、私だけ…。」


その声が頭の中で反響し、彼女の心に蓄積された寂しさと後悔が浮かび上がる。


だが、その瞬間、彼女の頭に浮かんだのは、リオやコウ、シュウたちの顔だった。

仲間たちが今も必死に戦っている姿が、彼女に立ち上がる勇気を与えてくれた。


「私は…負けない!」


ゆらは震える足で一歩踏み出し、足元の手を力強く振り払った。

その瞬間、教室の闇が一瞬揺らぎ、彼女の決意に押されるように影が後退した。



『ねえ、リオ、ここに閉じ込められるかもしれないね?』


ハルが薄く笑いながら教室の中央に浮かび上がる。

その声はどこか楽しげで、けれどその瞳の奥には複雑な感情が渦巻いている。

教室全体が揺れ始め、床の隙間から無数の細い手が這い出し、壁には人の顔のような形が浮かび上がる。

それらは苦悶の表情を浮かべ、口々に何かを呟いていた。


『助けて…助けて…。』


『ここから出して…。』


『見捨てないで…。』


「これって、取り込まれた生徒たちの…?」


コウが青ざめた顔で周囲を見渡し、シュウはすかさず彼女を庇うように前に立った。


「冷静になれ。これは幻覚に近い。感情を揺さぶられたら飲み込まれる。」


その声は冷静だが、握りしめた拳がわずかに震えているのを、コウは見逃さなかった。


『リオ、また…また私を見捨てるの?』


ハルがゆっくりとリオに近づく。

彼女の姿は薄い霧に包まれ、まるで教室全体に溶け込んでいるようだった。


「私は見捨てたわけじゃない…!お前を助けようと…。」


リオの言葉が途切れる。

その瞬間、ハルの瞳が鋭く光り、床から無数の手が一斉にリオに向かって伸びた。


「っ、離せ!」


リオは反射的に手元の札を叩きつけるが、それらは黒い影に吸い込まれるように消えてしまう。


「リオ!」


ゆらが必死に叫び、彼女に向かって駆け寄ろうとするが、その足元からも影が蠢き、まるで足を引きずり込むかのように絡みついてくる。


「やめろ…!やめてくれ!」


リオは必死に影から逃れようとするが、その手は彼女の足にしっかりと絡みつき、冷たい感触が徐々に皮膚を這い上がってくる。


『ねえ、リオ…どうして私だけ…あの時、どうして気づいてくれなかったの?』


ハルの声が耳元で囁くように響き、その言葉がリオの心に突き刺さる。


「私は…私はお前を…!」


その瞬間、影がリオの腕にも絡みつき、その指が骨を軋ませるほど強く締め付けてきた。


「リオ、しっかりして!」


ゆらが必死に手を伸ばし、その指先がかろうじてリオの手に触れる。


「お願い…ひとりにならないで…!私も、私もあなたを見捨てたくない!」


その声は、ゆらの心の底からの叫びだった。

その瞬間、リオの瞳がかすかに揺れ、影の束縛がわずかに緩んだ。


「…ゆら…。」


リオが震える声で彼女の名を呼ぶと、その手がゆっくりと影から解き放たれていく。


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