緋色の皇帝
第1話
その日は、嵐の夜だった。
天気の話じゃない。
低気圧よりもよっぽど厄介な、言葉にできないざらついたものが、背中を押し潰してきた。
スーツのジャケットを着たまま、リビングのソファに沈み込む。
名だたる企業の重鎮、政治家、スポンサーが一堂に会する晩餐会。
「高校生アスリート」として招かれたはずのその場所で交わされたのは、少なくとも子供に聞かせるべき話ではなかった。
「次は誰を売り出すか」
「どこに金を流すか」
「勝たせる価値のある人間とは誰か」
社会の闇――そう呼ぶのは簡単だが、その実態はもっと厄介で重たくて、生々しい。
御曹司として、名のある家の代表として、大人たちの駒として。
スケーターである前に「誰かの看板」として扱われる世界。
言葉の裏を読みあう目。
笑顔で毒を吐き合う大人達。
そして、正しさや努力など微塵も関係ない“利”だけで動く空気。
いっそ本当に嵐が来て、全部なくなってしまえばいいと、何度思ったか。
それでも、大人の事情とやらは、俺の願いなど聞き入れてはくれないらしい。
深く息を吐くと、羽根が生えたかの様に空へ飛べるはずの体は、鉛のように沈み込んだ。
指先が力なく落ち、ネクタイも外せないほどに思考が鈍っている。
「……なんか、もう、だめかも」
口から勝手にぽつりと落ちたその一言は、重く、か細かった。
いっそ全て捨てて逃げ出してしまおうか。
実際、「
文字通り、やろうと本気で思えばできる。
それでも、実行しようと本気で思えない。
それは、自分が立場に縛られているからではなく、
自ら縛られに行ってしまう自分がいるからだろうか。
「ただいまー!……って、うわ、
「うわ、ほんとだ…おかえり、葵。遅かったね」
「てかスーツ着たままじゃねえか……ほら、葵、上着脱がせるぞ」
「……優しい。好き……」
「はいはい。で、シャツのボタンも外す? 靴下も脱がせとくか?」
「
「いつもの事だろ、
暖かい手、優しい声。それだけで警戒心が勝手に解けて、口角が上がっていく。
「もっと甘やかして……。今日、ほんと疲れた。……しんどかった……」
「……呼ばれたくなかったんだろ、あの会食」
「でも行ったんでしょ?えらいえらい!
ね、なんか食べたい?ご飯作っておいたよ!」
「……食べさせて」
ソファに倒れ込んだまま、子供のように両手を少し開いて、茅の方を見る。
「はいはい、お口あーん! はい、天才茅ちゃんの特製卵雑炊〜♡」
「……ん。あったかい。おいしい。茅、天使。結婚しよ?」
「えっ!?!?!?」
「……あんた、ついに頭沸いたの?」
「ほら。飲むでしょ?」
「夕桔……好き。やさしい。だいすき……」
「……ほら、口元。こぼれてる」
「……夕桔も結婚しよ?」
「 二股するな。寝ろ」
ふっと笑って、タオルで彼の髪をそっと拭いてくれる夕桔。雑な扱いとは対照的にすごく優しい触り方で、心の尖った部分が段々少なくなっていく。
「ベッドまで運んでやろうか?」
「抱っこして……」
目を閉じて腕を伸ばす。
「はいはい、プリンセス。ご案内しまーす」
軽々と抱き上げてくれる蓮も、さっと食器を片付けてくれる茅も、先に俺の部屋で布団を整えてくれる夕桔も、誰も俺の内情に触れてこない。その距離感が、寂しいようで、有り難かった。
「…ねえ葵、ちょっと熱無い?」
「え?!大丈夫?!!」
「……うわっ、マジじゃねえか。茅、ちょっと声のボリューム下げろ。」
「あっ。……ごめんね、葵くん…」
「気にしないで、茅。ただの知恵熱だよ。」
下心の無い優しさ。
幾ら金を出しても、いや、金を出すほど手に入らないそれをいくらでも手にできる俺は、いったいどのくらい恵まれているのだろうか。
「……気持ち悪い声ばっかだった。
褒め言葉の裏に刺があってさ。誉め殺しと引き換えに、何を求めてんのか丸わかりでさ。」
誰に言っているのかもわからない独白。
水をすくおうとした手のように、ポロポロ言葉が漏れて止まらない。
「全部、嘘だった。誰も、俺なんか見てない。俺が跳べるかどうかなんて、どうでもいい。全部、金と数字と……力だ」
目を閉じれば浮かび上がる、値踏みする様に観察する目、吐き気を催す下心があふれる刺すような視線。
「なあ…、お前らが見てる俺は、……ちゃんとした俺、か?」
「当たり前でしょ。」
「ちゃんと、葵くんを見てるよ。」
「跳んで、滑って、吠えて、笑ってるお前が、1番かっけぇよ。」
求めている時に求めている言葉を本心からくれる友達。世界中の金持ちが切望する宝を独り占めできるなんて、俺はどんなに幸せ者なのだろうか。
「……もう、おまえら全員、俺が養う。一生面倒みる。だから、どこにも行くな」
「…三股?」
「わかったから、とりあえず寝ろ?」
「起きたらまた甘やかすから、ね!」
ここは、どこよりも甘くて、優しい場所。
俺が“トップスケーター”でも、“御曹司”でもない、“何者でもない”ただの少年に戻れる、たったひとつの場所だった。
こいつらがいてくれるなら、まだ踊れる。
どんな地獄でも飛び込める。
それ以上の天国を見せてくれるのだから。
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