第8話:幻影と現実の重なり

逃げなきゃいけない。

けれど、足が動かなかった。


六本木ホロシアターから退避する群衆の中、私は“それ”を見ていた。


巨大な仮面の異形。翼も足も持たず、ただ空中に浮かぶように存在する、ロキ。

まるで誰かが夢の中で組み立てた「未完成の人間像」のようだった。

けれど、その目はあまりにもリアルだった。


“おまえも、願っただろう”


心の奥に、誰のものでもない声が響いた。


《ERROR:FaeLink接続不安定》

《都市AR網に過負荷》

《現実レイヤー/幻影レイヤーの識別が不可能な状態です》


空間UIが文字通り“滲み始めた”。

看板が踊り、道路標識が言葉を持ち、通行人の顔が“泣き顔の仮面”に変わる。


ARの幻影が暴走しているのではない。

“都市そのもの”が、感情に巻き込まれて形を変えていた。


「優衣! 早く——!」


ニクスの声が風を裂いて響く。


私はようやく我に返り、彼の示す非常用出口へと駆け出した。


だがその途中、ある女の子がしゃがみ込んでいるのが目に入った。

まだ小学生くらい。両手で耳を塞ぎ、叫んでいる。


「うるさい! 願ってなんかない! もうやめてよ……!!」


私は足を止め、思わずかがみ込んだ。


「大丈夫、ここから出よう——」


その瞬間、彼女の背後で何かが“揺れた”。


無数のUI断片が、彼女の周囲に浮かび、赤い文字で回転する。


《願望過負荷:外部影響により強制発現》

《共鳴レベル:中→高》

《感情源不明、視界侵蝕中》


そして、彼女の背後に浮かんだのは、黒い羽根のようなノイズ。


「……また、“出る”」


ニクスが、私の耳元で呟いた。


ロキは、「願望の強制同期」が一定量を超えると再出現する。

そして、今回は子ども一人の“不受容”から、それが引き起こされた。


「ニクス……この子、助けられる?」


「やってみる」


彼は風のように舞い上がり、少女の周囲を巡った。

そして彼女のUI空間に、優しい声で語りかけた。


「きみの願いは、まだ形になってないだけだよ」

「いまは混乱してて、何を望んでるか分からないかもしれないけど、それでも——“だれかに分かってほしい”って思ってるでしょ?」


少女の仮面が、ひび割れた。

その隙間から、小さな涙が溢れた。


都市のログに、変化が起きる。


《FaeLink共鳴ログ:発現者補助型 共感成功》

《ロキ現象の一部、安定化》

《共鳴率:0.5%上昇》


「やった……?」


私が呟くと、ニクスはふわりと戻ってきて、頷いた。


「“願いを言語化できなくても”、誰かと繋がることはできる。

それが、ホロリングの“共鳴回路”の真価なんだよ」


私はその言葉を、しっかりと胸に刻んだ。


けれど、都市はまだ混沌の中にある。

AR広告は笑い、信号機は歌い、バスのルート案内が**「君は願ったのか?」**と問いかけてくる。


現実と幻影が、完全に溶け合っている。


それは、私たちがこの都市で“願いの力”を使いすぎた証だった。


六本木の空を見上げると、

空間に浮かぶ“ロキ”の像は、以前よりも少しだけ輪郭が薄れていた。


けれど、彼はまだ消えていない。


彼は、私たちの“願望の癖”そのもの。

まだそこにいて、ただ見ている。

「次の誰かが暴走するのを」。


私は、ニクスの羽をそっと握った。


「ねえ、私、あの子を助けて、ほんの少しだけ自分の“怖さ”が消えた気がする」


「うん。たぶん、それが“願いの形を変える”ってことなんだと思う」


UIが静かに再起動を始めた。


幻影と現実の重なりは、ほんのわずかに剥がれはじめていた。


それは、たった一人の少女の“理解してほしい”という願いによって起きた、微細な変化だった。


🔚次回:「あの画面の奥にいたのは」――優衣、過去の記録と向き合う

🧚‍♀️《HoloRing Fairy Archive No.07》

名前:ロキ(暴走型仮想人格)


状態:安定化フェーズ(中)突入


回復因子:未定義願望に対する“共感受容”


ログ補足:暴走を完全に止めるには、都市全体の「感情共鳴値」が臨界を超える必要あり。


「“願い”が曖昧で揺れるものなら、

それを責めるんじゃなくて、

ただそばにいてやることから始めよう。

それが、ぼくらの“風”の役割なんだ」

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