第5話

私は、窓辺にスケッチブックを広げ、筆を手に取った。


港の風景――あのとき目にしたあの光景が、今も頭の中ではっきりと形を保っている。


白い帆を張った交易船が、陽を浴びてゆっくりと岸に寄せていく。


桟橋には、荷を運ぶ男たちと、それを迎える女たちの姿。


風に乗って届く海水のにおい。


港町の熱気と、あの特有のざらついた光の粒が、私の記憶の中で色を持って踊っていた。


「……まずは水平線からね」


筆先を軽く水で湿らせ、最初の一線を描く。


私の中では、すでに構図が定まっている。


「空は澄んだ青、だけど、ほんの少しだけグレーを混ぜる……港の空は、透き通りすぎないほうがいい」


私は独りごちるように呟きながら、色を調合し、紙の上に落としていく。


「船の位置は少し右寄り……帆に反射する光を、強めに入れて……」


キャンバスの中で、港の景色が立ち上がっていく。


頭の中の映像が、筆を通して現実の形を取りはじめた。


「この船、白すぎるわね。もう少し影を落として、奥行きを出そう」


私は絵を少し離れて眺め、わずかに首を傾げた。


港で見た船は、真っ白ではなかった。


木の板が乾いて、ほんのり黄ばみを帯びた白――それを描かねば意味がない。


「乾いた木肌の色……これかしら」


絵具のパレットからオーカーを取り、少量のグレーを混ぜて筆に含ませる。


塗った瞬間、紙の中の船が、ぐっと質感を増した。


「よし……」


私は頷いた。


「次は波。あの港の波は浅くて、光をよく反射してた。青じゃない、薄緑……もっと複雑だった」


港に広がる波の光景を思い出しながら、筆先で細やかな線を引いていく。


港の波は、海というよりも水の層のようだった。


「下層の石が透けてた……だから、色を重ねる順番が大事」


私は一呼吸おき、絵に集中する。


会話を交わすように、港の記憶と対話しながら筆を動かす。


「あの魚籠を積んだ荷車……左の隅に入れようかしら。生活感を入れると、作品が一段と生きるのよね」


構図の左下に、小さな荷車を描き入れる。


絵の中にひとつの生活の匂いが加わった。


「これで、だいぶ整ったわね」


私は席を立ち、水を含ませた布で指先を拭った。


絵は、私が感じたままの港を映していた。


賑やかで、湿った熱気と塩の香りが漂ってくるような、そんな風景。


「……完成まで、あと少し」


私は新たに水彩を溶き直し、空の明度をわずかに調整する。


「雲を入れるべきかしら。いいえ、あの日は晴れていたわ。余計なものは描かない」


私はそう言いながら、筆を止めた。

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