貴族令嬢、干される。社交界を追われたので本当にしたかった画家として生きます。〜祖母が遺してくれた魔法の筆を手に異世界を旅する放浪画帖〜
旅する書斎(☆ほしい)
第1話
雨のように降り注ぐ非難の言葉を、私はただ黙って聞いていた。
いや、もう黙っているしかなかったと言ったほうが正しい。父の前で、あの場で、何を言ったところで許されるはずがなかったから。
「これ以上、我が家の名に泥を塗るつもりか、リリエット」
父の声は、冷え切っていた。かつて私の髪を撫で、絵筆を持つ小さな手を微笑ましそうに見ていたあの人と、同じ人物とは思えなかった。
私は目を伏せた。刺すような視線が、社交界の重鎮たちから突き刺さってくる。口元に手を添え、何かを堪えるように微笑む貴婦人。憐れむような眼差しの若い令嬢。そして、勝ち誇ったように唇を吊り上げる、彼女――ヴィオレッタ・エルミア侯爵令嬢。
そう、きっかけは彼女だった。
「まぁ、リリエット様がこんな――はしたない真似をされるなんて。とても信じられませんわ」
彼女の声は、絹で包んだ刃。社交界の花と称される彼女の言葉一つで、私の名誉は地に落ちた。
屋敷に戻されてからも、私は何も言わなかった。否、言えなかったのだ。
私の部屋から、絵具やキャンバスがすべて取り除かれていたのを見たとき、何かが音を立てて崩れた気がした。
あれほど隠していたのに。
誰にも見せず、ただ描くことでしか呼吸ができなかった私の“絵”を、誰かが暴いたのだ。
そうして“リリエット・カーヴェルは、絵描きまがいの真似事をしていた”という噂が、瞬く間に広がった。
「貴族令嬢が絵を描くなんて、まるで……」
「職人か何かと勘違いしているのでは?」
――そう囁く声が、私の背中に張りついていた。
けれど、奇妙なことに、私はそのとき思ったのだ。
ああ、もう――いい、と。
私が“貴族令嬢”であるために、どれだけ自分を抑えてきたか。好かれるために、笑い方ひとつ、歩き方ひとつ、どれほど気を配ってきたか。まるで役を演じる役者のように、私は“完璧な令嬢”であろうとしてきた。
それが、崩れた。
崩された。
でも、そこで私は、ようやく仮面を脱げたのだ。
部屋の隅にぽつんと置かれた古い木箱を、私はゆっくりと開けた。
その中に、ひときわ丁寧に包まれた一本の筆があった。
「……お婆様」
誰にも見せたことのない涙が、頬を伝う。
私が幼い頃、こっそり見せた絵にだけ、褒めてくれた人。私の夢を否定せず、ただ「好きなように描きなさい」と言ってくれた人。
彼女が遺してくれた、たった一本の筆。
魔法の筆。……そう呼ばれていたけれど、本当に魔法が宿っているのかはわからない。
けれど、私は知っていた。
この筆を持つと、胸の奥が熱くなる。何かが湧き上がるような、そんな感覚に包まれるのだ。
私は決めた。
ここにいても、私は私でいられない。
ならば、行こう。どこか遠くへ、この筆とともに。
そう、これは逃げじゃない。旅立ちだ。
誰のためでもなく、私自身のために描くための――。
世界が、すでに私を呼んでいた。
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