第九話(1)
「あの、大丈夫ですか……?」
声をかけてみるが、むにゃむにゃと返事にならない声が漏れるばかり。しかし、こんな子どもを夜の路上に放置しておくわけにもいかない。
「あなた、起きられますか? こんなところで寝てると危ないですよ」
何度か肩を揺すって、ようやく、ゆっくりとまぶたが持ち上がってきた。くっきりとした二重まぶたに長いまつ毛。半分まで開いた時点でもう、愛くるしい大きな瞳であることがわかる。
「ん~……」
どうやら、まだ寝ぼけているらしい。
「ほら、起きてください」
「ん~……おはよーございます。……あれ?」
少女はどうにか上半身を起こすと、不思議そうにきょろきょろと何度も辺りを見渡した。頭が左右に往復するたびに瞳が大きく見開かれ、次第に顔が青ざめていく。
「あ、あれ、ここ……どこ? えっ、今何時……? みんなは? ス、ステージは!?」
まだ寝ぼけているのか、よくわからないことを口走っている。
「あ、あたし、大変なことを……ど、どうしよう……!」
「落ち着いてください」
仁志は錯乱して暴れそうになる少女の両肩をつかみ、静かな低い声で諭すように言った。
「ほら、一度深呼吸をしましょう。はい、吸って…………吐いて…………」
少女は言われるままに呼吸を整えると、ようやく少し落ち着きを取り戻したように見えた。
「どうですか、落ち着きましたか」
「は……はい……」
「それはよかった。ほら、夜中にそんな格好では寒いでしょう」
と、仁志はスーツの上着を少女に着せた。
「あ、ありがとうございます……」
「さあ、駅まで送りましょう。おうちはどこですか?」
「……えっと、かがやき市です」
聞いたことがない。とはいえ、最近は市町村の合併で名前が変わることも多い。仁志はスマホで名前を検索してみた。が、日本にそんな名前の市は実在しなかった。
「スマホは持っていますか? もし親御さんやお友達の電話番号がわかるなら連絡をとりましょう」
その質問に、少女は今にも泣き出しそうな表情でかぶりを振った。
(困りましたね……)
仁志が腕組みをしながら次の策を思案していると、ぐぅ、とお腹の音が鳴った。仁志ではない。
「うぅ……」
少女がその場にへたりこんだままお腹をさすった。仁志は腕に提げた買い物袋に目をやった。買ったばかりの食材がぎっしり詰まっている。
「……とりあえず、何か食べましょうか」
※ ※ ※
マンションへの帰り道、隣を歩く少女はずっと悩み事で頭がいっぱいのようで、時折何かを呟いたり、頭を振ったり、とても事情を聞ける状態ではなかった。ふたりは無言のままマンションのエレベーターを降り、仁志の部屋の前まで来た。
「どうぞ。玄関の鍵は開けたままにしておきますから安心してください」
言って仁志が先に部屋に入ると、少女は靴を脱ごうとして、はたと躊躇いを見せた。
「あの……」
と、視線を落としたのは泥だらけの靴。靴だけではない。服にはあちこち土がこびりつき、せっかく可愛らしく二つ結びにした髪にも草や葉が貼り付いていた。
「気にしないで上がってください。中で汚れも落としましょう」
彼女が上がりやすいように、仁志がわざと少女を置いてさっさと奥の居間に入っていくと、少女はすこし逡巡した後、「おじゃまします……」と遠慮がちに呟いて靴を脱いだ。
※ ※ ※
仁志は少女を居間に通すと、ひとりでキッチンに立った。買い物袋と冷蔵庫から、これから使う食材を取り出して調理を始める。
「アレルギーや苦手なものはありますか?」
少女が首を左右に振ると、仁志は「それはよかった」と、取り出した野菜に包丁を下ろした。カットした野菜を左のフライパンに、レンジで解凍した牛肉を右のフライパンに放り込むと、左右のコンロを同時に中火で起動し、換気扇のスイッチを入れた。
「今、お風呂も沸かしてますから」
左右のフライパンを木べらで交互にかき混ぜながら言うと、少女はおそるおそる口を開いた。
「あの……どうして」
「……ふむ。夜中に子どもが倒れているのを見つけて放っておく方がどうして、じゃないですか?」
ふふ、と笑いながら焼肉のタレを適量流し込む。タレが全体に行き渡ったところでコンロを止め、炊き上がったばかりの白飯をどんぶりによそって、その上から野菜、肉と順番にフライパンの中身を乗せていく。
「簡単なもので申し訳ありませんが」
少女の待つテーブルに出されたのは、いかにもおじさん料理なスタミナ丼。しかし単純な料理ほど味の想像もつきやすい。焼けた肉とタレの匂いは彼女の空っぽのお腹を刺激するには十分すぎた。さっきよりも大きな音が鳴った。
「ふふ、どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
箸を受け取った少女は丼を手に持ち、人目を憚らずかきこんだ。これだけいい食べっぷりを見せてもらえるなら作った甲斐があるものだ、と仁志は温かい目でそれを見守った。
「ふぅ~、ごちそうさまでしたぁ!」
やはり食事は元気の源である。少女がようやく笑顔を見せ、満足げに手を合わせた。……と、そうかと思えば。
「……うぅぅ、ほんどにおいじがっだでずぅ……」
やっと一息ついて安心できたのか、今度はぐずぐずと大粒の涙を流し始めた。感情の波が激しいのは、それだけ精神状態が不安定ということだ。仁志が心配そうに様子を見ていると、お湯張り完了を知らせるセンサーが鳴った。
「少し待っててくださいね」
仁志はそう告げると妻の寝室に向かい、暗い部屋に明かりを点けた。今も人が暮らしているかのような清潔感が保たれているのは、仁志が定期的な清掃を欠かさないおかげである。
「すみません、映子さん。ちょっとお借りしますね」
仁志は洋服箪笥から、なるべくリラックスできそうな、素材の柔らかい服を探した。見たところ彼女の身長は155センチあるかないか。妻より少し小柄だ。比較的着られそうなものを選んで居間へと持ち帰った。彼女は泣き止んではいたが、まだ鼻水をすすっていた。
「今日は疲れているでしょうから、ゆっくり湯船に浸かって体を温めてください。それから、これを」
と、持ってきた服を渡す。
「サイズが少し大きいかもしれませんが、よければ使ってください」
言いつつ、仁志はなぜか妙にそわそわした。今の若い子の服の好みなど彼にはわからないので、自分のチョイスが正しかったのかどうか不安だったのだ。
「わっ、すごい……!」
少女はその服に目を輝かせた。どうやら喜んでもらえてはいるようだが、それにしてはリアクションが大げさに思えた。
「あたし、生の服なんて初めて見ました!」
「……ほう?」
言葉の意味がわからず仁志が困惑していると、少女は「ありがとうございます」と深くお辞儀をして風呂場に消えた。……かと思うと、すぐに戻ってきて。
「あの……あたし、
と、もう一度お辞儀をして、また風呂場へ戻っていった。
「……ふむ」
仁志は初めから少女の言動に違和感を覚えていた。彼女を警察に連れて行かなかったのもそのためだ。仁志はスマホを開き、先ほどの「かがやき市」に「日向キラリ」を加えて検索した。そこには、想像していた通りの答えがあった。
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