第六話(1)
「それじゃあ、行ってくるマポ~!」
「行ってきまぁす!」
仁志宅の玄関で、マポと、マポを抱いたいづみがワクワクした様子で仁志に笑顔を向けて手を振った。いづみはいつものポニーテールを下ろして日除けのベースボールキャップをかぶり、英字のロゴが描かれた白いTシャツにデニム生地のショーパンというラフな格好で、旅行用のキャリーケースを引いている。マポもぬいぐるみ用の小さな麦わら帽子をかぶせてもらって上機嫌である。
「ええ、気を付けて」
仁志が手を振り返した。今日から夏休みを利用して友人と海に遊びに行くいづみが、マポを一緒に連れて行くと言い出したのだ。つまり、仁志の「気を付けて」には「マポの正体がバレないように」の意味も込められていた。本来、そんなリスクある行動は避けるべきなのだが、みなとみらいのミラキューパレードからはや三ヶ月、いまだミラキュー世界へのトンネルについて何の手がかりも掴めていない今、捜索範囲の拡大は必要であった。また、外へ出れば常に誰かに持ち運んでもらわなければならず、行動範囲の制限されているマポにとっていい気分転換になるだろうという思いもあり、仁志はいづみとの旅行を許可したのだった。
いづみが玄関扉を開くと、それまでかすかに聞こえていたアブラゼミの鳴き声が爆発したような大合唱で耳に飛び込んできた。宅内に入り込んできた湿度の高い熱気は、彼女たちを見送り扉が閉められた後も仁志の肌に張り付いたままだった。
夏だ。
カレンダーではなく、自身の身体で季節を認識した。仁志は振り返って家の中を見渡した。
「さて、やりますか」
腕をまくるジェスチャーをして、自身を鼓舞するようにひとりごちた。
※ ※ ※
各部屋の窓と扉を開け、開放したベランダを通して外気を取り込めるようにすると、仁志はマスクと掃除用具一式を装備した。
よくも悪くも、マポと暮らし始めてから仁志の生活は一変した。食事や洗濯などの家事は二人分になり、自分の時間はマポとの団らんの時間になり、休日にはミラキュー世界へのトンネル捜索のために頻繁に外出するようになった。そうやって日々のルーティーンが崩れると、たいてい最初に犠牲になるのが「掃除」である。食事や洗濯と違い、数日やらなくても死にはしない。それが油断に繋がるのだ。塵も積もればゴミ屋敷。仁志は久々に一人になったこの機会に家中を美しくするぞと一念発起したのであった。
まずは箒を手に取り、廊下から各部屋へと順に表面上の埃をかき集める。続いて粘着テープ付きのローラーを転がし、カーペットやソファに潜り込んだ毛や小さなゴミを巻き取っていく。そのうえで隅々まで掃除機をかけて、仕上げに雑巾による水拭きで完了だ。
「……さて、と」
居間、書斎、台所、和室、廊下と掃除を終えた仁志は、最後に妻・映子の部屋の前に立った。カバーのかかったドアノブに手をかけ、静かに扉を開く。壁のスイッチを押すと、シーリングライトが明かりを灯し、あの頃──妻が暮らしていた頃と変わらない部屋を映した。仁志は三年前からこの部屋の物をなるべく触らず動かさず、彼女が生きていた頃のレイアウトそのままに保つようにしてきた。自分の手で彼女の生きた痕跡を上書きしてしまうのが怖かったからだ。
「あれ……?」
違和感があった。どうも部屋の様子がいつもと違う。……いや、部屋自体は何も変わっていない。置いてある物はすべて以前と同じ場所にある。となると、変わったのは仁志の方だ。棚に飾られたぬいぐるみも、本棚の書籍も、クッションの絵柄も、今まではただ視界に入っているだけにすぎなかった。しかし、今の仁志にはそれらが持つ意味を理解することができた。公式ビジュアルブックと書かれた背表紙が、年代別に並べられたミラキューのものであることも、タンスの上のぬいぐるみが東京キャラクターモールで見たチャーミーキャットであることもわかった。視界からの情報が、新たに得た記憶とリンクし、それらは仁志の中で初めて意味を持った。
「……そうか」
これが妻の好きなものだったんだ、と仁志は理解した。本を取り出してページをめくった。棚からぬいぐるみを下ろして眺めた。妻はかわいいものが好き──そんな漠然とした表層だけのイメージではない。かわいいものにもたくさんの種類があり、それぞれが違う良さを持っている。仁志は今、そのことにやっと気付いたのだ。彼はこれまで、お互いの趣味嗜好に踏み込みすぎないからこそ心地よい夫婦関係が築けていたのだと思っていたし、実際、それも間違いではなかった。しかし、もし妻が心のどこかで、夫婦で好きなものを共有したいと思っていたとしたら? もっと、仁志にかわいいものの良さを知ってほしいと思っていたとしたら? ミラキューの書籍をめくりながら仁志は思った。もしかしたらマポは、そのために映子が自分の元へ遣わせてくれたのではないのだろうかと。飛躍した発想だと自分でも思った。しかし、彼は「ありがとう」と静かに呟いた。
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