プロローグ3 地域伝承 名刀の響き
《北常陸ノ陣 ―伊達政宗と律に触れた影―》
暦は文禄、戦の火は東北の雪をも焦がす。
伊達政宗、鬼若子と恐れられたその若将は、
眼光鋭く、破軍の星を背に従えていた。
だが、彼にはひとりの近習がいた。
名を持たず、旗にも記されず、伝承でのみ語られる若武者。
細身、無口、影のように政宗の後ろを歩き、
戦場では誰よりも早く、敵将の首を挙げたという。
**
ある夜、政宗は彼に問いかけた。
「おまえは、
それに、若武者は黙って頷いた。
「
将の鼓動が響けば、矢の雨の音が消えます。」
政宗は目を細めた。
それはまるで、“律を聞く者”の言葉だった。
されどこの時代に、律という言葉はまだない。
それは神秘と恐れの狭間に漂う、**名を持たぬ“気配”**に過ぎなかった。
**
戦場は、南の峠であった。
西から進軍する敵軍を挟撃する計。
政宗は自ら囮となり、若武者には裏手から火を放つよう命じた。
夜明け前、霧が深く立ち込め、
笛の音すら凍るような気温のなか、
若武者はたった五騎で敵の本陣を撹乱した。
火は上がり、混乱が走る。
政宗の本隊が動いた。
だが――
その炎の中に、若武者の姿はなかった。
**
彼は、敵将に見つかり、討ち合っていた。
数を頼む敵に囲まれ、刀は折れ、脚も斬られ、
もはや呼吸すら定まらぬなか、
彼は最後の刃を手に取った。
その瞬間――
風が止まり、空気が震えた。
刃が、かすかに“鳴った”。
誰にも聞こえぬはずの音。
されど、その場にいた者すべてが、一瞬、心臓が“打ち鳴らされた”ような感覚に陥った。
**
それは、律――
律の“芽吹き”のような、
音ではなく、存在の震え。
名もなき若武者の、死に際の魂が刃を通して世界を一度だけ揺らしたのだった。
敵将は、刃に触れることなく膝を折った。
若武者は、息を吐きながら、
口元にわずかな笑みを浮かべ、
そのまま、音のない世界へと消えた。
**
戦ののち、政宗は敵将の首を見てつぶやいた。
「あの者は、“音を聴きすぎた”のだ。
そして、音の先にある何かに、手を触れたのだろう。
我らが踏み入れぬ世界に、一刹那だけ。」
政宗は、誰にも言わず、その折れた刃を自らの佩刀に溶かし込ませた。
それ以降、彼の太刀は戦場で“間合いの前に勝つ”と呼ばれたという。
人はそれを武の才と呼び、
軍略の妙と讃えたが、
ただひとり政宗だけが知っていた。
あの刃には、“あのときの残響”が宿っている。
そして、戦が終わるたびに、
政宗は夜にひとり、太刀を置き、耳を澄ませたという。
しかし、響きは聞こえぬのであった。
世界がまだ、律に気づいていなかった頃――
律は、ひとりの名もなき者の死によって、物に音を宿した。
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