第9話 消えた紫の風
昼前の陽ざしは、まだ柔らかく風はどこか気まぐれだった。
ヴェントは誰にも見つからないように裏門から抜け出すと
制服のまま、人気のない通りを選んで歩いていた。
背中のカバンが揺れる度に中のランチボックスがコトコトと
音を立てる。
──今日は、何が入ってるんだろうな♪
セラが、毎朝作ってくれるランチは
今やヴェントにとって“探検の相棒”だった。
施設で育った彼にとって、誰かが自分のために
用意してくれる食事は、それだけで特別だった。
きっちり留められたランチボックスが、カバンの中で音を立てると
それはまるで「今日も、気をつけて行ってらっしゃい」
と言っているように思えた。
「今日は、あの丘の向こう側まで行ってみるか……」
足取りは軽い。けれどその胸の奥には
言葉にならない何かがずっと風のように渦巻いていた。
ヴェントは時折、空を仰いだ。
アストレリスの空は、セルヴェリスとは全く違っていた。
白銀に透けた雲が流れ、ところどころに薄紫の光が滲むその空は
まるで夢の中にいるようだった。
「ほんと、別の世界みたいだなぁ……」
何度見ても、まだ見慣れない空だった。
丘の方へ向かって歩いていると、見覚えのある金属のフレームが視界に入った。
「あ……ここ……」
舗装された小道の脇に並ぶ、静かな輸送ドック。
今も時折、荷物を積んだ小型機が滑り込み短い合図音を鳴らしては出ていく。
大げさな設備ではないが、アストレリスの住民がちょっとした遠出や
貨物輸送に使う場所だ。
彼がセルヴェリスから逃げてきたとき、初めて足をつけたのも
ここのひとつだった。
──セリンの家に来たのは、あの夜だったな。
何も持たずに飛び出して、空腹と睡眠不足でフラフラして川に落ちて。
気がついたら、あったかい部屋で、いい匂いがしてて──
セラが出してくれた夕飯の味は今でも忘れられない。
あの時、何も言えなかったけど
暖かくて、嬉しくて、なんか苦しくて。
初めて触れた家族の優しさに胸がいっぱいになった。
ヴェントは、物心ついた時から独りだった。
「家族……母さん……」
呟いた声が、風の音にかき消される。
思い出なんて、何もない。
顔も知らない。声も、温度も、何も知らない。
「俺を捨てたヤツのことなんか、どうでもいいと思ってたのに……」
セラみたいに優しくて、あったかい人だったんだろうか……?
それとも──
カバンの中で、ランチボックスがカタッと音を立てる。
『無理して全部食べなくていいからね』
そう言いながら優しく微笑む、今朝のセラの顔が浮かんだ。
「ありがとう、……行ってくるよ。」
ヴェントは背中のカバンをぽんっと叩いてから
ステーションに背を向け、丘の向こうへと歩き出した。
しばらく歩いて、小道を外れて丘の斜面を登りはじめた。
ここから先は初めて訪れる場所。
けれど彼にとって知らない場所に来る事は、もう日常だった。
雲の合間からヴェリオンの光が緩やかに差し込んで
木の葉をすり抜けた薄い影が地面で揺れていた。
「誰も知らない景色を、俺が一番最初に見るんだ……」
呟くように言いながら、ヴェントは靴の裏で転がった小石を軽く蹴る。
転がった小石の先に、見慣れない岩場があった。
いつもより高く、いつもより遠い──
それだけで、心が躍る。
けれど、足取りがだんだん重くなっていく。
足元に見えない糸が絡みついているかのように
歩みを遅くしていた。
さっき見たステーション。
それと──
(……昨日、アストラ広場で出会った、あの人──)
ヴェントは、思い返す。
昨日、たまたま広場の店先でぶつかったセルヴェリス人らしき男。
スーツ姿で、どう見てもアストレリスの住民じゃなかった。
軽く謝って立ち去ろうとしたとき──
「お前……まさか、あの時の……」
そう言って、男は険しい表情でヴェントの瞳をまじまじと見つめた。
ヴェントは、そのまま走って逃げた。
ヴェントの薄い紫色の瞳は、セルヴェリスにもアストレリスにも
同じ色をしている者は、いない。
でも、あの時の男の表情──あれは、ただの驚きではなかった。
(あの時のって、なんだよ。あいつ、俺の過去を知ってるのか?)
ヴェントは唇をかみしめた。
施設にいた頃は、ずっと気にしていなかった。
自分の瞳の色が他の人と違う事も
生まれた場所も、自分を捨てた親の事も。
全部、知らなくていいと思っていた。
なのに今は、やけに気にかかる。
自分にも、セラのように優しくあたたかい家族があったのではないか?
何か自分を育てられない理由があったのではないか?
本当は愛してくれていたのではないか──
そんな想いが、どんどん湧いてきて足元に絡みついていく。
見えない糸を振り切るように歩いていると
遠くで、大きな鳥が一羽、風に乗って悠々と飛んでいた。
その姿を追いながら、ヴェントはゆっくりと丘の稜線を越えた。
眼下に広がったのは、知らない森だった。
深く静かで、誰の足跡も見当たらない。
ヴェントは肩からカバンを下ろし、木の根元に腰を下ろした。
蓋を開けると、ランチボックスが顔をのぞかせた。
セラの手作りのサンドイッチを黙々と食べながら
ぼんやりと森の奥を見つめながら考えていた。
──あの男は、俺の目を見て何を思ったんだろう。
あの男は誰なんだ? 俺の何を知ってるんだ?
知るのは、怖い。
でも過去から逃げているようで急に自分が嫌になった。
(やっぱり、本当の事が知りたい!)
森をあとにして、ヴェントは来た道を戻った。
街に近づくほど、あの男の顔が鮮明に蘇る。
自分の瞳をまじまじと見つめた、あの目。
何かを見定めるような、鋭い眼差しだった。
夕方のアストラ広場は、昨日と同じように多くの人でに賑わっていた。
店先に並ぶ果物、行き交う人々、子どもたちのはしゃぐ声。
でも──あの男の姿は、どこにもなかった。
ヴェントは人の波の中で立ち尽くし
昨日、走って逃げてしまった事を後悔していた。
「ここには、もういないか……」
ぽつりと呟いて、諦めるように背を向ける。
とぼとぼと歩き出した。ふと、セラの作った夕飯の匂いが脳裏をよぎった。
賑やかな食卓。安心する声。暖かな灯り。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
その夜──
セリン達の部屋の明かりが落ちた後、ヴェントは窓辺に腰を下ろして
じっと空を見上げていた。
外は静かだった。
寝静まった街の向こう、アストラ川のせせらぎが遠くかすかに聞こえる。
その上に、星がゆっくりと瞬いていた。
ヴェルナは、ちょうど高く昇ったところで
淡い銀の光を、屋根や木々の上にやさしく落としていた。
けれど──その光は、今夜のヴェントには少しだけ冷たく感じた。
「俺は、真実から逃げてただけなのかな……」
ヴェントの独り言が、窓の外のヴェルナの灯りに溶けていく。
いつもと同じ、賑やかな食卓と
優しいセラの笑顔。
目を閉じればすぐに、はっきりと思い浮かんだ。
『おやすみなさい、また明日ね。ヴェント』
セラの声が、胸に染みるようだった。
でも──もう、甘えてはいけない気がした。
この優しさが、自分の居場所になってしまう前に。
本当の自分を、探しに行かなければならない気がした。
──翌朝。
まだ誰も起きていない家の中で、ヴェントは音を立てないように靴を履いた。
カバンの中には、いつもの水筒とランチボックス。
今日も、セラが朝早く用意してくれていた。
それだけで、目の奥が熱くなった。
テーブルの上に、一枚のメモを残した。
ただ一言──
『旅に出る』
それだけだった。
けれど、それが今のヴェントの精一杯だった。
彼は静かに扉を閉めると、振り返らずに歩き出した。
朝のひんやりとした風が背中を押す。
まるで、“紫の風”が、どこかへ消えていくようだった。
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