第21話
大規模作戦を翌日に控えたその日、バニー・フォースの訓練施設では、最終調整のためのシミュレーション戦が実施されていた。
アイリは、いつものように冷静沈着に狙撃ポジションにつき、逆バニースーツの白い装甲を朝の訓練施設の照明に反射させながら、仮想空間に次々と出現する模擬ターゲットを的確に排除していく。
その動きは、まるで精密機械のように正確無比に見えた。
しかし、管制室で彼女のバイタルデータと戦闘行動をモニタリングしていた真田ハヤトは、その微細な変化を見逃さなかった。
「反応速度が、通常値より5.2%低下している……ターゲット補足後のエイミングにも、コンマ数秒単位だが、僅かな遅延が計測されるな」
ハヤトは眉を寄せ、腕を組みながら呟いた。
スクリーンに映し出されるアイリの表情は、いつも通りの無表情。
だが、その完璧なポーカーフェイスの下で、何かが確実に蝕まれている兆候が、データにはっきりと現れていた。
『大丈夫か? 少し顔色が悪いように見えるが』
ハヤトは通信で問いかける。
「問題ありません」
アイリの声は、いつもより硬く、そしてどこか張りがなかった。
シミュレーションの難易度が、最終フェーズへと移行する。
複雑な市街地を模したフィールドに、複数の大型デビルズターゲットと、パニック状態で逃げ惑う民間人(これもまたダミーだが、極めてリアルに再現されている)が混在する、極めて判断力の要求される状況が現出する。
アイリは、完璧に対応しようと、全神経を集中させる。
だが、無数の情報が脳内で錯綜し、判断に僅かな、しかし致命的な迷いが生じ始めた。
その瞬間、まるで頭蓋の内側から鋭い針で突き刺されたかのような、激しい痛みが彼女の脳を襲った。
スコープ越しの視界が、じわりと滲むようにぼやけ始める。
「これ、は……」
アイリは、不測の事態に対する動揺を必死で押し隠そうとする。
だが、一度生じた身体的エラーは、彼女の鉄の意志をもってしても制御不能だった。
突然の、めまいを伴う激しい頭痛に、彼女は思わず顔をしかめる。
スノーウルフを握る彼女の白い手が、カタカタと微かに震え始め、スコープから視線が、するりと外れてしまった。
ターゲットの赤い光点が、ぼやけた視界の中で、まるで嘲笑うかのように明滅している。
『どうした! 応答しろ!』
ハヤトの切迫した声が、遠くで聞こえたような気がした。
だが、アイリの意識は、まるで深い水の底へ引きずり込まれるように、急速に遠のいていく。
最後に彼女の網膜に映ったのは、急速に暗転していく、シミュレーションルームの天井だった。
◇
アイリが目を覚ました時、彼女は医務室の簡素なベッドの上に横たわっていた。
消毒液の匂いが微かに鼻をつき、窓からは、燃えるようなオレンジ色の夕日が差し込み、部屋全体をどこか感傷的な色合いに染め上げている。
「……あ、よかった、気がつきました」
ベッドサイドで、カレンが心配そうに彼女の顔を覗き込んでいた。
その大きな紫色の瞳は、不安と安堵の色で潤んでいる。
カレンの隣には、腕を組み、厳しい表情でアイリを見下ろすハヤトの姿もあった。
「大丈夫ですか? どこか痛むところはありますか?」
カレンの優しい声が、まだぼんやりとしているアイリの意識に染み込んでくる。
「……任務中に、意識を喪失。部隊のオペレーションに支障をきたし、誠に、申し訳ありませんでした」
アイリは、身体を起こそうとしながら、まず軍人としての謝罪を口にした。
それが、今の彼女にできる、唯一の正しい行動だと判断したからだ。
彼女の辞書に、「甘え」という言葉は存在しない。
「今はそんなこと、どうでもいいのよ!」
その時、医務室のドアが勢いよく開き、白衣を翻しながら紫藤マドカ博士が入ってきた。
その手には、数枚の検査結果らしきデータシートが握られている。
「単刀直入に言うわ。あなたの身体は、もう限界なの。これ以上、今の状態を続ければ、最悪の場合、二度と戦場に立てなくなる可能性だってあるのよ!」
マドカの言葉は、いつもよりずっと真剣で、そして有無を言わせぬ響きを持っていた。
アイリの表情が、ほんのわずかに、しかし確かに変化した。
だが、彼女はすぐにいつもの完璧な平静を装い、反論を試みる。
「私は、完璧です。少し、休息を取れば、次の任務には――」
そのとき、彼女の言葉を遮ったのは、ハヤトだった。
その声は静かで、しかし、絶対的な意志を感じさせる、断固とした響きを持っていた。
「白雪アイリ。明日の大規模作戦から、君を外す。そして、君は本日より、特別訓練プログラムに入ってもらう」
「待ってください……私は、まだ戦えます! 私は、バニー・フォースの、スナイパーとして――」
初めてだった。
アイリが、上官の命令に対して、明確な反論の意思を示したのは。
だが、ハヤトは、彼女の言葉を許さなかった。
「ダメだ。これは命令だ」
ハヤトは、アイリの目を、射抜くように真っ直ぐに見つめていた。
その瞳の奥には、厳しいだけではない、何か……彼女にはまだ理解できない、深い感情が宿っているように見えた。
その瞬間だった。
自分でも、信じられないことが起こった。
アイリの白い頬を、一筋の、熱い雫が伝っていくのを、彼女自身が感じたのだ。
……涙? この私が? いったい、なぜ?
慌てて手の甲で拭おうとするが、それはまるで壊れた水道の蛇口のように、次から次へと溢れ出してきて、止めることができなかった。
完璧であるはずの彼女の仮面に、音を立てて、初めて大きな、修復不可能な亀裂が入った瞬間だった。
「……わたしは……私は……」
嗚咽と共に、かろうじて絞り出した言葉は、彼女自身も驚くほど、弱々しく、そして絶望に満ちていた。
ハヤトは、そんな彼女の姿を、ただ黙って、しかし、これまで見たこともないほど真剣な、そしてどこか痛みを堪えるような表情で見つめていた。
その瞳の奥に、より一層深い決意の色が宿ったのを、彼女は、涙で霞む視界の中で、確かに感じ取ったのである。
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