噂を運ぶ陸花
ミーティングが散会すると、透子先輩は缶を抱えて材料倉庫へ、宵先輩と碧は下絵の確認に向かった。私は机上の道具をまとめてから、粉塵で乾いた喉を潤そうと新棟へ降りる。
北窓の長い廊下を抜け、渡り廊下のガラス越しに空を見上げると、雲の影がどこか群青がかった色をしていた。光のせい――そう自分に言い聞かせ階段を降りる。旧棟を離れてもなお、青の気配が視界の端に残っている気がした。
校舎一階の手洗い場は始業式前で人気が薄い。蛇口をひねると水が赤錆を混じえて冷たく指に染みた。掌の粉を落とすうち、背後から軽い足音が近づく。
「霞っち、お疲れっス!」
振り向くと同級生の洲崎陸花がスマホを掲げていた。黄色のB6ノートを脇に抱え、目は興奮で爛々としている。
「ミーティングの動画、もうストレージに上げましたから。青の動き、マジで映ってましたよ」
「ありがとう。でも……映っていた、って?」
「粉の浮き方っス。ほら、こう、“ふわっ”て。編集で明度上げると青い筋が走るんスよ」
陸花はスマホを操作し、カット編集した映像を見せた。照明の下で粉が舞い上がり、一瞬だけ青い尾を引いている――確かに肉眼よりはっきり青い。あの、静かに脈打つような粉の動き。
視界の奥でノイズがわずかに揺れる。私は目を瞬かせ、水で顔を冷やした。あの、備品室で見た光の筋と、同じだ――。
「ね、やっぱり怪談コースっスよ」
「怪談?」
「旧棟火災の逸話ッス。一部で“青い顔に呼ばれて火が出た”って噂。新聞には載らなかったけど、当時の生徒掲示板に何本か書き込みが残ってるらしいッス」
陸花はノートを開く。手書きのタイムラインに、2005年7月20日――旧棟火災当夜のメモが走り書かれている。
「二十年前の夜、誰もいないはずのアトリエから笑い声が聞こえて、見に行った子が“壁の中から顔が浮かんだ”って証言したス。で、その直後に出火、二人亡くなった――とか」
「公式記録では、深夜作業中の電気系統ショートで出火でしょ?」
「そ。けど怪談界隈じゃ“群青の呪い”って呼ぶんス」
陸花は笑いながらも目元だけ真剣だった。
「だって色が生きてるように動くなんて、普通にポルターガイスト案件っスよ。砒素とかコバルトとか化学要素も絡むし、オカルトと科学のハイブリッド。最高にバズる」
私は蛇口を締め、タオルで指先を拭う。
「……動画は、カメラのせいでそう見えるだけかもしれない」
「つまんないッスね。まあ透子先輩からも“オカルト方向は控えろ”って指示来てるし。ただ、火災の噂は止めようがないスよ」
陸花はノートを閉じ、声をひそめる。
「ねえ霞っち。さっきの会議で透子先輩が言った“空気を描く”って、本当は“空気を呼ぶ”じゃないっスか? 旧棟の空気そのまま復活させるってヤツ」
「……呼ぶ?」
「火災当夜の空気って、まだこの建物に封じ込められてるかもしれないス。群青が媒介なら、また呼び水になる。だから顔料に近づくと眩暈するんスよ、きっと」
言葉が肺に重く沈む。さっき缶を見た瞬間のあの「引力」が脳裏に蘇り、指先が震える。それでも私は努めて平静を装った。
「陸花さん……もし映像を外に出すなら、安全面の事実も載せてください。砒素や火災、オカルトのことを煽るだけだと……」
「了解っス。ちゃんと裏どりする。オカルトは大好きだけど、嘘は書かない主義っスから」
彼女はスマホを胸にしまうと、急に声を明るくした。
「それにしても、同級生と一緒にこんな面白い案件に立ち会えるなんて、運命感じるっスよ。私たち二年でしょ? 卒展より絶対ネタになる!」
私は苦笑した。
「面白い、で済めばいいですけど」
陸花は蛇口で手を濡らし、鏡に向かって前髪を整えた。
「なにか不安ならいつでも呼んでほしいッス。“怖がりつつ実況”が私の特技ッス」
「ありがとう。……本当に、頼むかもしれない」
正直に言うと、胸の奥の不安は増すばかりだった。あの青の呼吸が、怪談の笑い声と重なり耳から離れない。
廊下へ戻ると、窓の外で雲が流れ、陽が陰った。瞬間、壁の陰影が群青めいて見え、私は小さく肩をすくめる。
「ほらね、もう始まってるっスよ」
陸花は楽しげに囁き、先に駆けていった。
揺れる制服の裾が角を曲がると、廊下は静けさを取り戻す。濁った昼光に浮く埃が、青くも灰色にも見えた。
不安は数値にならない。けれど確かに増幅し、胸の奥で鼓動を速める。
私は深く息を吸い、手帳を開けずに踵を返した。青の気配が背中を撫でる。私の知らない怪談の続きを、すでに誰かが語り始めている気がした。
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