青藍のパレイドリア
ふしめろ
第1章 始業前夜──群青の胎動
霞の手帳と薄霧の朝
色覚記録:2025年4月6日 06:31。寮–南棟三階、望月霞の居室。
青が、呼吸している。
網膜の裏側で。粘着質な生を持って。
――これ、副作用?
目をひらく。視界いっぱいに「群青」が張り付いていた。まず、その異常な色に意識が奪われる。
私の習慣は、見えるものを数値に変換して把握することだ。部屋のデジタル温度計を確認する。気温18℃。湿度45%。窓辺の光は――相関色温度6,480 K。私の目には、世界は本来、色の標準値に沿った落ち着いた色調で映り、過不足なく整列して見えるはずだった。
しかし、この群青はその数値から外れている。
数週間前に受けた色覚補正手術の影響だ。手術自体は成功と診断された。だが副作用として、一色だけが異様に、際立つようになった。青。中でも高彩度の群青領域。それに焦点を合わせるたび、視界の輪郭がわずかに「滲む」。
まるでピントを外した写真を無理にシャープネス補正したような不自然な縁取りが生まれ、他の色相を押しのけて、青だけが、粘着質な生を持って「呼吸」を始めるのだ。術後のダウンタイムは過ぎ、日常生活は送れる。だが、この症状だけは消えない。
ベッド脇のテーブルに置いたA6判の黒手帳をとり上げる。表紙に銀の箔押しで〈桜陽芸術高校 美術科〉、裏には私の名前「望月霞」。ページをめくると、数日前の欄に自分の走り書きが残っていた。
>手術後経過:青域ノイズ収束せず。特定波長への固執、継続観察。
指先でインクの凸凹をなぞると、脈拍がわずかに跳ねた。継続観察――もっともらしい医療用語は、実のところ「経過はわからない」という放免宣言に等しい。私は回復ではなく、このまま「青」へ沈降していく途上にいる。
シーツを払って立ち上がる。窓の外、早朝の校舎は白磁を思わせる淡色で眠っている。新しい一年が今日から正式に動き出す。だが私の全意識は、体育館裏にひっそり建つ旧棟アトリエへと引き寄せられていた。
二十年間、火災の記憶と共に封鎖されてきた木造の影。「いわくつき」の場所。その壁面に、再び巨大な壁画を蘇らせる――〈壁面再生プロジェクト〉の選抜通知を受け取ったのが、昨日の放課後だった。
リーダーに指名されたのは三年の九条透子先輩。天才と噂される彼女は、顔合わせの席でこう言った。
「私は空気を描くつもりや。色なんか、ただの呼吸の置き土産やから」
その言葉が、胸の奥で響いた。私の視界で呼吸を始めた「青」と、先輩の言う「空気」「呼吸」――それは、私の異常性を肯定されたかのように感じられた。あのとき確信した――私はこの青に囚われているのではない。あの青が、私を選んだのだ。
制服に袖を通し、白い記録用エプロンを畳んで鞄にしまう。ポケットには色票カードと精密ペン。いつもならRGB値で空の色を記録するところだが、今日はできそうにない。窓外の空は、心臓を締め付けるような、名付けえぬ「青灰」でよどみ、数値のフレームからはみ出している。
まだ朝のチャイムまで一時間――だが落ち着きは訪れない。私の全感覚は、旧棟の扉が開く瞬間を待って震えている。不安と期待が溶け合い、私の視界の奥深くで、あるいは網膜の裏で、群青が微かに「脈動」するのを感じる。
群青寄りの発色――ぼそりと呟いた独り言が寮室の静寂へ溶ける。
今日、私は再生の初筆を任される記録係だ。けれど手帳にはまだ何も書けない。書くべき色は、標準値では測れない、未知の場所で初めて息づくのだから。
私は手帳の余白に、青を示すはずの数字の代わりに小さくこう書いた。
>予兆:輪郭が揺れる。
>真の値、確認待ち。
ページを閉じると、指先に汗が滲んでいた。
群青の胎動は、始業前夜の静かな寮室ですでに**「脈打ち」始めている。**旧棟の扉が開くのを、待っている。
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