クレープを食べている時だっただろうか。それとも、カレーを食べている時だっただろうか。それとも、お土産を見ている時だっただろうか。

 とにかく、母の携帯に突然電話がきたことを覚えている。

 母は少し離れたところで電話をとり、「ええっ」と声をあげた。

 あづきと月子は顔を見合わせて、首をひねる。

 「はい、はい……あの、少々お待ちください」

 母が困惑したようにつぶやき、電話口を押さえながら小走りでこちらに向かったきた。

 「どうしたの?」

 「月子……事務所の方からね、特例で合格にしたいんだけどどうかって。アイドルじゃなくて、女優枠で」

 驚いて、一瞬心臓が止まった気がする。

 目の前の景色も全て止まった。もちろん、隣で月子も止まっていた。

 切り裂くように、あづきは大きく言った。

 「いいじゃん!」

 ここで、百年分の勇気を使った——ので、この先、何もできなくても仕方ないと思って欲しい。それくらい、あづきは力を込めた。

 母と月子は驚いてあづきを見る。

 「いいじゃん、お姉ちゃん、女優さんぴったりだよ。アイドルより向いてるよ、すごいよ!」

 悔しくなかったわけじゃない。

 結局、自分はオーディションに落ちてしまったし、辞退したにも関わらず姉は特例で合格してしまった。しかも、募集枠のなかった女優枠に。

 「……うん、やってみよう、かな……」

 月子の瞳がきらりと光る。

 本当は、アイドルもやりたかったのかな。でも確かに、アイドルっていうより女優さんって感じがするかも。歌ったり踊ったりしてみんなに元気を届けるアイドルは素敵だけど、お姉ちゃんって何か違う。

 美人で、綺麗で、どんな表情も目が離せなくて、ミステリアスなのにちょっと臆病で——惹きつけられるのって、お姉ちゃんだけだもん。

 この時、女優『坂本月子』が誕生した。


 月子は劇的に忙しくなった。

 交通費やレッスン代は事務所持ちということになり金銭面は解決したが、毎週レッスンや小さな仕事で家と東京の事務所を往復する日々となった。

 あまりにも忙しすぎるし、両親は一年くらいさせて辞めさせようと思っていたらしい。

 でも、すぐに大きな仕事がきた。人気俳優が主演の、連続ドラマの主人公の妹役だった。

 出番はそこまで多くはない。それでもテレビの中にしかいない芸能人と一緒に仕事をするだなんて、あづきには到底考えられない話だった。

 月子はそこでしっかりと役目を果たし、世間に「坂本月子」の名前を知らしめた。

 あの妹役の子、カワイかった。なんか惹きつけられるっていうか。すご、まだ小学四年生なんだ。

 評判は上々で、次から次へと仕事が舞い込んできた。

 夏休みや冬休みは事務所にホテルを借りてもらい、母と一緒にそこで寝泊まりしながら仕事をしていた。事務所がお金を出すから、ということで、一度父と遊びに行ってみると、あの時のビジネスホテルより格段に広く美しい部屋だった。

 たくさん置いてあるソファを見て、ああもうあの時の夢叶っちゃったな、と静かに感じた。

 ただマネージャーさんがよく出入りしていたし、月子は取り憑かれたように台本を読んでいたし、母は慣れた様子でお水を渡したりしていて、とても団欒という感じではなかったけれど。

 中学はまだしも、姉はてっきり高校は寮か何かに入り向こうに行くのだと思っていたが、月子は中学卒業と同時に仕事をセーブするようになった。

 地元の普通の公立高校に三年間通い、月子は学校生活を楽しんでいたようだった。

 帰宅部だったので、家にいる時間も長かった。当時中学一年生だったあづきは、月子からメイクや流行の服を教えてもらった。オドオドしていた少女の面影はなく、女優・坂本月子としての貫禄がそこにあった。

 一方で、あづきはなんとなく居心地の悪さを感じていた。実は内緒であの後何度か他のオーディションを受けてみたが、どれも書類審査で落ちた。姉はスーパースターで、自分は何にもなれない人。姉は顔パスでビルに入ることができるが、私は関係者に顔を見せる権利すらもらえない人。

 自然と避けるようになり、特にやりたくはなかったが友だちがいたのでバドミントン部に入部してみた。おしゃべりをしていても怒られないようなゆるい部活だったので救われた。

 気になる先輩もできたのだが、「坂本のお姉ちゃんってさ……」と言われた時点でいろいろと冷めてしまった。そういうことが何度もあった。


 「私ね、卒業したら東京に行って、ひとり暮らしして、仕事頑張るから」

 雑誌をめくりながら、月子が静かに言った。

 父も母も出かけていて、居間には月子とあづきしかいなかった。ということは、あづきに向けて言っているのだろう。

 「そうなんだ。頑張ってね」

 それくらいしか思いつかないし、特に言うこともない。

 月子はゆっくりと微笑んだ。

 「お父さんとお母さんのこと、よろしくね」

 たまには帰ってくるから、と付け足した言葉に、あづきは曖昧にうなずいた。

 

 宣言通り彼女は高校卒業後東京に行き、テレビや雑誌で彼女を目にしない日はないくらいの活躍を見せた。

 たまには帰ってくるから、なんて言っていたけど、月子がこんな田舎に帰って来れるような時間はなかった。

 月子は毎月仕送りをしてくれていたし、あづきの大学費用も用意してくれた。きっと、両親だけでは無理だっただろう。

 こんなのいらないのに。べつに、大学なんて行きたくないのに。と反発してみたが、他にやりたいこともないので素直に行くことにした。ド底辺の大学だったので名前さえ書けたら受かるのだが、「合格したよ」と電話すると想像した百万倍喜んでくれて、大きなケーキや花束が届いて少し呆れた。この家のどこに置けというのだ。

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