風の通り道 ―空の器―
@Ryu-Seiun
第1話 帰郷
小説『風の通り道 ―空の器―』
龍 青雲
【第1章:帰郷】
山の
門前には、朽ちかけた石灯籠が斜めに立ち、
——ここで何度、あの坐の形を組んだだろう。祖父の手に導かれて、冷たい木床に座ったあの朝の、襦袢の背に染みた
山肌に残る雪が夕陽を浴びて赤銅色に光り、その反射が彼の頬を淡く染める。風のそよぎと鳥のさえずり、それだけが音としてそこにある。
三十年近くの歳月が過ぎている。東京の大学を出て、医師となり、診療の現場でがむしゃらに働き続けた四半世紀。しかし、患者の死という現実と日々向き合いながら、医師としての理想と現実の狭間で揺れ動いていた。どれほど患者の身になって治療に当たろうとも、届かない場所がある……その事実が心に深く刻まれ続けた。やがて自らの限界を悟るようにして病院を離れた。転じて手がけたのは、医療とITをつなぐ起業。臨床で得たデータをAI解析にかけ、予後予測や診療支援に応用するという試みだった。
静馬は、寺への石段を上りながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。電源を落とそうと画面に触れた瞬間、会社宛ての未読メールの山が目に飛び込んでくる。
「静馬様
先日のネオ・アレテー製薬との提携交渉が成功裏にまとまりましたこと、誠におめでとうございます。また、ノワ・レース製薬におきましては、御社のAIシステムなくして、あの画期的な新薬の臨床試験成功はありえませんでした。投資家たちの期待も高まっており……」
彼は読むのをやめ、電源を切る。
人工知能が算出する患者の「生存確率」という数字の前で、どれほど彼自身が空っぽになっていったか。それはもう考えたくない。
石段を登りきり、山門の手前の前庭に足を踏み入れる。苔むす古い石畳が彼の靴の下に広がる。一歩いっぽ前に進む。足音は苔の絨毯に吸い込まれて聞こえない。「生存確率」や「死亡確率」などという数字とは無縁の静けさが辺りを包んでいる。
静馬は、冷徹なまでの論理と、誰にも追随を許さない臨床データの収集と分析力を武器に、医療ITの世界で頂点を極めようとしていた。しかし、その頂から見下ろす景色は、彼が見たかったものとは異なっていた。医療DXに向けて彼が心血を注いで灯した光は、どこまでも無機質で温もりを欠いていた。
「人を救う技術が、なぜこんなに遠いんだろう」 そう思った時には、すでに会社を手放す決意を固めていた。
「お帰りぃ」
低い声が背後から聞こえた。 振り返ると、山門の脇にひとりの老人が杖をついて立っている。
「……東雲老師。まだ、ここにおられたんですね」
「ここを離れる理由が、わしにはないでな。おまえの方こそ、帰ってくる理由が、できたのか?」
静馬は一瞬言いよどみ、言葉を探す。が、やがて
「寺としては……」 と静馬が言いかけると、
「ああ、公には『廃寺』じゃな。だが、坐禅堂と
老師は穏やかに微笑んで続ける。
「話を戻すが、お前の帰ってきた理由を聞いてもええかのう?無理に答えんでもええが……」
「はい。何かが、空っぽになって……」
「空っぽか。結構なことじゃ」
「結構なこと……ですか?」
「そうじゃ。まず空っぽにならねば、何も入らん。何も通らん」 そう言うと、老師は笑みを浮かべて小さな門を開ける。その笑顔は、直近に会ったひと昔前とまるで同じだった。皺は増えていても、目の奥に灯る光はまったく変わっていない。
寺の奥には、まだ修繕の手が入らない本堂が残っている。瓦は割れ、柱にも苔がむし、軒先からは細い氷柱が垂れ下がっている。冷たい外気が肌を撫で、呼吸するたびに白い息が小さく舞う。それでも、空気は濃く感じられ、辺りは昔と変わらぬ静けさに満ちている。鳥の声すら、どこか遠く、時間が止まっているようだ。
「少しの間、ここに居てもよろしいですか?」
「好きなだけ居なされ。お前さんは、昔からここにいたようなもんじゃからな」
東雲老師の言葉に、静馬は何か重しが取れたように感じる。肩の力がうまく抜け、冷たい空気が鼻腔で
その日の夕方、静馬が坐禅堂の縁側で寒風に吹かれていると、見慣れぬ女性が東雲老師と共にこっちにやってくる。栗色の髪にカチューシャをした、切れ長の目をした三十代の女性だ。和装に慣れていない様子で、少しぎこちなく胸元を気にしている。
「あなたが、シズマさん? シノノメ老師から聞いています。私はミナ。ドイツから来ました。研究のために、ここに滞在しています」
「研究?」
静馬は少し驚いて尋ね返す。彼女の日本語は流暢で、わずかなアクセントの違和感がむしろ心地よく響く。
「彼女は禅と認知科学の接点を探る研究者じゃ」
後からやって来た東雲老師が静かに説明する。
「三年前から毎夏ここに来ておる。今年は冬にも来よった。日本の大学との交換留学も経験したそうでな。言葉の壁を超えて、もっと深い『壁』と向き合っておるのじゃ」
「わたしの専門は、自己意識についての研究です。シズマさん、あなたと、少し話がしたい」
ミナの青い目が、透き通るような透明感を持って静馬を見つめる。その瞳の奥に、何らかの答えを求める切実さが感じ取れる。
そのとき、誰かの笑い声が、ふいに山の方から聞こえてきた。子どもの声だ。風に紛れて聞こえたその声に、静馬はなぜか胸の奥が震えるのを感じる。 彼の中で、何かが、ゆっくりと動き出している。凍りついていた流れが、わずかに、だが確かに解け始めている音がする。
「ミナさん、お話しはまたの機会にしましょう」
老師とミナにそう言ってから、静馬は麓の町での買い出しがあることを理由にその場を立ち去る。
(つづく)
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