風の通り道 ―空の器―

@Ryu-Seiun

第1話 帰郷

小説『風の通り道 ―空の器―』


龍 青雲


【第1章:帰郷】


山のに沈む陽が、まだ雪の残る稜線を紅く染めている。静馬しずまは古びた石段の下に立ち尽くし、見上げるように寺院を眺める。表向きは「廃寺」として記録されているが、細々と法灯を守る者たちはまだいるのだ。屋根は所々破れ、壁は苔むしているが、かすかに漂う線香の香りが、ここがまだ「生きている」場所であることを物語っている。 ここは、彼が幼いころ、祖父に連れられて坐禅を組んだ場所だ。当時から檀家は減り続け、正式な寺院としての機能は失われつつあったが、土地の人々の心の拠り所として、いつしか公式ではない形で存続するようになり今に至るのだという。


門前には、朽ちかけた石灯籠が斜めに立ち、けやきの落ち葉が辺り一面を覆っている。足を踏み入れるたびに、枯れ葉のこすれる音が静寂を破る。落ち葉を踏むたび、湿り気を含んだ土がわずかに沈む。その感触が足の裏から膝へ、腰へ、そして背骨へと伝わり、忘れていた古い姿勢を思い出させる。


——ここで何度、あの坐の形を組んだだろう。祖父の手に導かれて、冷たい木床に座ったあの朝の、襦袢の背に染みたこうのぬくもりまでがよみがえる。

山肌に残る雪が夕陽を浴びて赤銅色に光り、その反射が彼の頬を淡く染める。風のそよぎと鳥のさえずり、それだけが音としてそこにある。


三十年近くの歳月が過ぎている。東京の大学を出て、医師となり、診療の現場でがむしゃらに働き続けた四半世紀。しかし、患者の死という現実と日々向き合いながら、医師としての理想と現実の狭間で揺れ動いていた。どれほど患者の身になって治療に当たろうとも、届かない場所がある……その事実が心に深く刻まれ続けた。やがて自らの限界を悟るようにして病院を離れた。転じて手がけたのは、医療とITをつなぐ起業。臨床で得たデータをAI解析にかけ、予後予測や診療支援に応用するという試みだった。


静馬は、寺への石段を上りながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。電源を落とそうと画面に触れた瞬間、会社宛ての未読メールの山が目に飛び込んでくる。


「静馬様 

先日のネオ・アレテー製薬との提携交渉が成功裏にまとまりましたこと、誠におめでとうございます。また、ノワ・レース製薬におきましては、御社のAIシステムなくして、あの画期的な新薬の臨床試験成功はありえませんでした。投資家たちの期待も高まっており……」


彼は読むのをやめ、電源を切る。

人工知能が算出する患者の「生存確率」という数字の前で、どれほど彼自身が空っぽになっていったか。それはもう考えたくない。

石段を登りきり、山門の手前の前庭に足を踏み入れる。苔むす古い石畳が彼の靴の下に広がる。一歩いっぽ前に進む。足音は苔の絨毯に吸い込まれて聞こえない。「生存確率」や「死亡確率」などという数字とは無縁の静けさが辺りを包んでいる。


静馬は、冷徹なまでの論理と、誰にも追随を許さない臨床データの収集と分析力を武器に、医療ITの世界で頂点を極めようとしていた。しかし、その頂から見下ろす景色は、彼が見たかったものとは異なっていた。医療DXに向けて彼が心血を注いで灯した光は、どこまでも無機質で温もりを欠いていた。

「人を救う技術が、なぜこんなに遠いんだろう」 そう思った時には、すでに会社を手放す決意を固めていた。



「お帰りぃ」


低い声が背後から聞こえた。 振り返ると、山門の脇にひとりの老人が杖をついて立っている。東雲しののめ老師だった。静馬の記憶にあるよりも、すこし小柄に、そしてより静かな風情になっている。


「……東雲老師。まだ、ここにおられたんですね」


「ここを離れる理由が、わしにはないでな。おまえの方こそ、帰ってくる理由が、できたのか?」


静馬は一瞬言いよどみ、言葉を探す。が、やがてうなずく。目を巡らせ、崩れかけた屋根や朽ちた柱を見る。


「寺としては……」 と静馬が言いかけると、


「ああ、公には『廃寺』じゃな。だが、坐禅堂と庫裏くりだけは何とか保っておる。時々、外国からも修行者が訪れるようになってな。形だけの寺より、中身のある廃寺の方がよいと思うてな」


老師は穏やかに微笑んで続ける。

「話を戻すが、お前の帰ってきた理由を聞いてもええかのう?無理に答えんでもええが……」


「はい。何かが、空っぽになって……」


「空っぽか。結構なことじゃ」


「結構なこと……ですか?」


「そうじゃ。まず空っぽにならねば、何も入らん。何も通らん」 そう言うと、老師は笑みを浮かべて小さな門を開ける。その笑顔は、直近に会ったひと昔前とまるで同じだった。皺は増えていても、目の奥に灯る光はまったく変わっていない。



寺の奥には、まだ修繕の手が入らない本堂が残っている。瓦は割れ、柱にも苔がむし、軒先からは細い氷柱が垂れ下がっている。冷たい外気が肌を撫で、呼吸するたびに白い息が小さく舞う。それでも、空気は濃く感じられ、辺りは昔と変わらぬ静けさに満ちている。鳥の声すら、どこか遠く、時間が止まっているようだ。


「少しの間、ここに居てもよろしいですか?」


「好きなだけ居なされ。お前さんは、昔からここにいたようなもんじゃからな」


東雲老師の言葉に、静馬は何か重しが取れたように感じる。肩の力がうまく抜け、冷たい空気が鼻腔でぬるくなり肺の奥まで染み込んでいくようになる。


その日の夕方、静馬が坐禅堂の縁側で寒風に吹かれていると、見慣れぬ女性が東雲老師と共にこっちにやってくる。栗色の髪にカチューシャをした、切れ長の目をした三十代の女性だ。和装に慣れていない様子で、少しぎこちなく胸元を気にしている。


「あなたが、シズマさん? シノノメ老師から聞いています。私はミナ。ドイツから来ました。研究のために、ここに滞在しています」


「研究?」


静馬は少し驚いて尋ね返す。彼女の日本語は流暢で、わずかなアクセントの違和感がむしろ心地よく響く。


「彼女は禅と認知科学の接点を探る研究者じゃ」

後からやって来た東雲老師が静かに説明する。


「三年前から毎夏ここに来ておる。今年は冬にも来よった。日本の大学との交換留学も経験したそうでな。言葉の壁を超えて、もっと深い『壁』と向き合っておるのじゃ」


「わたしの専門は、自己意識についての研究です。シズマさん、あなたと、少し話がしたい」


ミナの青い目が、透き通るような透明感を持って静馬を見つめる。その瞳の奥に、何らかの答えを求める切実さが感じ取れる。


そのとき、誰かの笑い声が、ふいに山の方から聞こえてきた。子どもの声だ。風に紛れて聞こえたその声に、静馬はなぜか胸の奥が震えるのを感じる。 彼の中で、何かが、ゆっくりと動き出している。凍りついていた流れが、わずかに、だが確かに解け始めている音がする。


「ミナさん、お話しはまたの機会にしましょう」


老師とミナにそう言ってから、静馬は麓の町での買い出しがあることを理由にその場を立ち去る。


(つづく)

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